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其ノ弐

 晶は、やはり機嫌を損ねていた。

 日が悪いわ、と華夜理は思う。

 陽当たりの良い座敷の中央に据えられた卓には、晶が丹精込めて作った朝食が並んでいる。華夜理より一つ上の、今年で十七になる従兄弟の晶は、万事にそつなく、この家の家事を一手に仕切っている。それは華夜理に家事をする才覚が一切ないことの表れ、というよりは寧ろ、万事が万事、自分の流儀でないと気が済まない晶の性分が為せる業だった。

 屋久杉で作られた木目も鮮やかな赤茶色の卓に晶は着いている。制服姿の少年が、立派な木材の卓に端座した様子はそのまま絵のようである。座敷の畳は去年張り替えたばかりで、まだ青々として、それが屋久杉の赤茶色と対照的で一層、絵になるのだった。


「おはよう、華夜理」

「おはよう、晶」


 いつも通り、挨拶を交わす。晶はおかずが冷めるのも構わず、華夜理が来るまで食事に手をつけようとしない。そんな頑なさを持つ彼の、細い銀縁眼鏡の上の柳眉がひそめられたのを見て、華夜理は桜色の唇をきゅ、と結んだ。

「香を焚いたね、華夜理」

 怜悧な印象さえ与える神経質そうでもある顔立ちの、晶が不興になると独特の威圧感があり、そしてそうなる程に彼の容貌の端整さを際立たせる。

「ごめんなさい。晶。カムパネルラとジョバンニがいけないのよ。二人が桔梗色の空から、鷺が舞い降りるのを見たりしたから、私も香を焚いて、そんな光景を瞼の裏でだけでも見たくなったの」

 華夜理特有の言い訳を聴く晶は憤りを霧消させ、一つか細い溜息を吐いた。

 食卓をちらりと見る。

 そこには漆椀に入った(しじみ)の味噌汁、えのきと大根おろしの和え物、法蓮草のお浸しに、この家でも上等の部類に当たる錦手の古伊万里の器に絹厚揚げが擦られた生姜をちょこんと載せて置かれていた。

 晶が今日は特に気合を入れて朝食を用意したのは一目瞭然であり、また、華夜理がそれをぶち壊してしまったのは嗅覚に瞭然であった。

「また華夜理はそんなことを言う。『銀河鉄道』の天の川の件かい?それにしても麝香とはね……」

 苦笑する晶に、華夜理はきょとんとした顔をする。

 そうすると着ている着物も相まって、生きた人形のような印象が強くなる。華夜理の目は丸く大きい形ではなく、整ったアーモンドの形をしている。だから今の華夜理は、車道に飛び出て驚いた猫にも通じるものがあった。

 もちろん華夜理は、麝香の効能に男性に働きかけるものがあるなどとは知らない。

 晶も、教える積りはなかった。ただ世間に疎い従妹を促す。

「早くお食べ。折角の料理が、冷めてしまう」

「はい。いただきます」

 疑問を棚上げにした晶をそれ以上追及するでもなく、華夜理は素直に彼の言うことに従った。これまで晶の言うことに従って、失敗した例はない。


 朝食を済ませ、洗物も終わらせた晶は腕時計を見ながら靴を履く。洗濯機も、朝食を作る前に回していたので、自動乾燥させても半乾きの衣類を玄関に来る前に手早く干してきた。

 この家の玄関の靴箱の横には床の間めいた空間が広く設けられ、大きな白い陶磁器の平たい花器に、華夜理が活けた大輪の菊や松、百合などが芳香を放っている。

 玄関まで見送りに出た華夜理に言う。

「良いかい?家庭教師の先生以外に応対に出ちゃいけないよ」

「解っているわ。ねえ、晶。私、天の川を見てみたいわ」

 晶が笑い、華夜理の髪の毛を優しく梳いた。

「季節も季節だし、このあたりでは無理だな。人工の灯りが多いから。華夜理に登山はきついだろうし、今度プラネタリウムに行こう。それで良いかい?」

「本当?約束よ」

「ああ」

「私、ジョバンニみたいな旅がしたいの」

「やれやれ、すっかり『銀河鉄道』の世界に浸ってるね。でも華夜理。カムパネルラのようになってはいけないよ。彼は宇宙を旅したが、戻ることは叶わなかった」

 身体の弱い華夜理は、今まで風邪をこじらせた肺炎で、死線を彷徨ったことが何度かある。華夜理は真剣な顔で頷いた。

 硝子レンズを通した晶の漆黒の双眸が、案じ、憂いているのが彼女にも解るのだ。

「約束するわ。行ってらっしゃい、晶」

 今度は華夜理が誓いを口にする。

「行ってきます、華夜理」



 しん、と静かになった玄関で、華夜理は立ち尽くしていた。

 晶は約束を破らない。だから自分も、約束を破ってはいけない。


「私はカムパネルラみたいに天上までは行かないわ。だってそうしたら晶、貴方は泣くでしょう?ジョバンニは、それは酷く泣いたのよ。だから晶。私を信じて」



挿絵(By みてみん)




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