其ノ拾捌
「暑いわよ」
「暑くない」
「暑いわ」
「暑くない、外は意外に冷えてるんだ」
明くる日曜日は快晴だった。
真っ青な空に白い綿のような雲が一つ二つ、呑気に浮かんでいる。
華夜理の執念の賜物か、熱も下がり、彼女にしては珍しく洋装でプラネタリウムに行くことになった。
プラネタリウムの座席で、帯が潰れるのを懸念してのことである。
久し振りの早朝の読書の時間、ワンピースを着て『銀河鉄道の夜』を読み返しながら、華夜理の胸はわくわくと弾んでいた。
何もかもが上手く行きそうな、そんな気がする。
水玉にも見える小花柄のワンピースは、紺の夜空に雪が降りしきるようだ。
その上にラヴェンダー色の薄手のカーディガン。
華夜理はそれで十分だと思ったが、晶がその上に黒いドレスコートも着るようにと言って譲らない。初春の冷えが、華夜理の身体に障ると心配しているのだ。
結局は華夜理が折れて、ドレスコートをカーディガンの上から羽織った。そして、エナメルのエメラルドグリーンの小さなバッグを持つ。厚手の紅いタイツを履き、靴は灰青色の短いブーツ。
晶は青い綿シャツに黒のスラックス、それに濃紺のジャケット、靴は焦げ茶のタッセルローファーである。
自分は軽装の癖に、心配性なんだから、と思いつつ華夜理の心はずっと弾んでいる。
やっと一緒に満天の星空を――――人工のものだが、観ることが出来るのだ。
思い描く、星の砂粒。
ジョバンニのように夜空を旅するのだ。
「華夜理。タクシーが来たよ」
晶が、玄関から応接間で待機していた華夜理を呼ぶ。
「天文科学館までお願いします」
「天文科学館?お客さん、それならバスが近いですよ」
「連れが病弱なもので」
「……解りました」
客が若い二人ということへの侮りもあるのだろう、近距離への依頼を最初はあからさまに敬遠しようとしたタクシーの運転手だが、華夜理の抜けるような肌の白さを見て、得心するところがあったのか、車を発進させた。
予め、晶がプラネタリウムの上映時間をネットで調べていた為、丁度、次の回が始まる前に科学館についた。館内には天文に関する諸展示物、土産物が並び、レストランも併設されている。
プラネタリウムの中に入ると、もう八割がた、席は埋まっていた。
華夜理の手を引いて、晶はその中の手頃な席に座る。座ると席が自動的に後ろ倒しになり、やや慌てる。
メカのようなプラネタリウム投影機が室内に大きく鎮座し、そして投影は夜八時頃の空から開始された。
空はやがて天の川を映し出し、頭上には満天の星が広がる。
煌びやかな色彩の帯。
華夜理が晶の手をぎゅっと握る。感動しているのだろう。
晶もその手を握り返す。穏やかに。
(あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、目もさめるような、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとおった球が、輪になってしずかにくるくるとまわっていました)
華夜理の頭には『銀河鉄道の夜』の文章が回っていた。
『一般に、日本では天の川が見やすい季節は夏とされていますが、夜空には一年中、天の川は輝いているのです』
ナレーションを聴きながら、晶はそっと華夜理の様子を窺い見る。
暗い中でも彼女の頬は薔薇色だろうと判る。
満天の星の中、咲く華がここにある。
やがてプラネタリウムの上映が終わる。
華夜理が席を立ち、晶と室外に向けて歩きながら言う。
「お父さんとお母さんも、きっとあの星々の中にいるのね」
ぎくりとして晶が華夜理を振り向くが、華夜理は平生と変わらない。
夜に見せる不安定さが、今はない。
晶はほっと息を吐き、昼食を食べるべく、華夜理とレストランへ向かった。
本を読んでいた浅葱のスマホが鳴った。
浅羽は外に友人らと遊びに出ている。
浅葱は茶色い革の栞を文庫本に挟み、掛けてきた相手の名前を見て怪訝な顔になる。
「はい。華夜理?」
『浅葱…浅葱…』
泣いている。
「華夜理。どうしたの。何かあった?今日は晶とプラネタリウムだったよね?」
数秒の沈黙。しゃくりあげる声が聴こえる。
『晶が』
「うん。晶が?」
優しい声で続きを促しながら、浅葱は嫌な予感がした。
ひどく嫌な。
『車に撥ねられた――――』