其ノ拾漆
そして訪れたのはいつもの朝だった。
いや、いつもの朝であるべく、晶が心を砕いたのだ。
「おはよう、晶」
「おはよう、華夜理。もう具合は良いのかい?」
「まだ少し咽喉が痛いみたい。でも大丈夫」
座敷に姿を現した華夜理は生成り地に十字模様が織り出された真綿紬に、ざっくりした織りの赤系統の帯、それに映える孔雀色の帯締めがポイントの着こなしをしていた。
――――もう本調子であるという華夜理なりのアピールが感じられる。
晶はその姿に銀縁眼鏡の奥の目を細め、着座するよう華夜理に促した。
「じゃあ、あとでまた、檸檬ジュースを作ろう」
「うん。ありがとう」
座敷は静かだった。
時折、雀の鳴き声がする他は、晶と華夜理が什器を扱う音だけが響いた。
閉められた縁側の障子から、今は朝の光が射し込んでいる。藺草の上に、月光とは異なる種の明の光を押し広げる。
「そう言えばね、晶」
「うん」
「起きたら部屋の畳の一部が濡れてたの」
「……へえ」
「物の配置も少し変わってる気がして。どうしてかしら」
「さあ。どうしてだろうね」
晶が華夜理と目を合わせて微笑する。
あ……、と華夜理は思った。
彼が何か、華夜理に知らせたくない事実を誤魔化そうとする時、よくする表情だ。伊達に何年も一緒に暮らしていない。そのくらいのこと、解るんだからと胸の中でいじけた思いを持て余しつつ、結局それ以上の追及を華夜理がしないのは、晶の行為は畢竟、華夜理の為にされることだからであった。
部屋の異変を晶が誤魔化すのであれば、それは華夜理の為を思ってのことだろう。
だから華夜理は蜆の味噌汁を啜り、食事を再開した。
百合の花弁の先が薄く黄ばんできた。
こうなるともう、活け花としての役目も終わりだ。
華夜理は晶を見送る為に来た玄関の靴箱の横の、床の間めいた空間に活けた花の様子を見る。本当は今日は土曜日だから、公立校であれば休みなのだ。だが晶が通う私立の学校は、土曜日も普通に授業がある。華夜理にはそれが疎ましかった。
晶が詰襟のボタンをきっちり首まで留めた姿で、靴を履きながら華夜理に言う。
「今日の夕方、安西先生に来てもらうから」
「え、他の子の指導は?」
「それが終わったあとだよ。先生と話をするから、華夜理は邪魔しちゃ駄目だよ」
「……はあい」
少々むくれながら返事した華夜理を振り返った晶は微苦笑して、学生鞄を持ち直した。
「じゃあ、行ってくるから」
「はい。行ってらっしゃい」
ここ数日間、華夜理の看病をしていた暁子は、今日はもう通常通りで大丈夫だと言う華夜理に勉強を指導する為の教材を持って来たが、いざ本人を前にするとそうとも思えなかった。
勉強部屋の中央、四角い漆黒の卓の上の問題用紙を解く華夜理は、息苦しそうであり、時々、咳込みもする。
いつもながら艶やかな着物姿に騙されていたが、華夜理はまだ快復し切っていないのだ。
暁子は早くに気付かなかった自分を責めた。
「先生?」
「華夜理さん。今日はここまでにしましょう」
「え?でも、まだ問題が……」
「体調が悪いのでしょう。無理してはいけません」
暁子は、彼女にしてはやや強引に華夜理を浴衣に着替えさせると、華夜理の部屋に布団を敷いて有無を言わさず寝かしつけた。
初めてこの書院造風の部屋に入った時、暁子は華夜理はやはり自分たちとどこか異なる空間に生きる少女なのだと思った。塵芥に塗れた外界とは異なる清浄な空気がそこにはあった。清浄で――――どこか閉鎖的な。
今、華夜理は大人しく寝床に横たわっている。
着替えるように言った時だけ、口惜しそうな、彼女には珍しく反抗的な顔をした。
暁子は蜜柑の皮を剥き、その生命力を分け与えるように華夜理の口元に運んだ。
「先生」
「何ですか?」
「夕方、晶と何を話すんです?」
「……それは私にも解りません」
「嘘だわ」
華夜理が鋭く言った。暁子が息を呑む。
鋭い目をした華夜理は、しかしみるみるしょげて気弱な表情になる。
「週末……、明日、晶とプラネタリウムに行く約束なの。しっかりしているところを見せて、外に出ても大丈夫だって晶に思わせたかったのに……」
これじゃ行けないわ、と顔を両手で覆った華夜理を、暁子は何と言って慰めたものかと考えあぐねた。
それから、このお姫様のような少女を囲い込んでしまおうと思う晶の気持ちが、多少ながら察せられた。
華夜理が眠り込んでいる夕方、暁子は間宮小路家を再訪した。
黄昏が郷愁を誘う時間帯で、灰紫と濃いピンクが空を段模様に彩っている。
華夜理がまた寝込んだことを知った晶は、粥と自分用の簡単な食事を作っていた。
「貴方は華夜理ちゃんにどうあって欲しいんですか、晶君」
応接間で、暁子は開口一番そう尋ねた。
手のつけられないアールグレイが胡桃材のテーブルの上で寂しげに湯気を立てている。
元々この話し合いは、晶から言い出したものではあるが、暁子は暁子でその必要性を感じていたところだったのだ。
この大人びた少年は、しかしまだ子供だ。
社会経験もない。必要に迫られて世慣れているだけだ。
だがそう思う一方で、端然とジャガード織りに座る晶には、既に大人の貫録があるとも感じた。
唯一、掛け替えない者を守る為の強い意志――――。
「安西先生。僕は華夜理に健康で、幸福であって欲しいと願っています」
「この家に閉じ込めながら?」
鋭く反駁した筈が、何も知らない他人を憐れむような微笑を浮かべられて、暁子は当惑した。
張り出し窓の向こうには、今しも落ちていこうとする夕日が見え、応接間全体を黄金色に染め上げていた。烏の声が聴こえる。
「安西先生。これは今まで話していなかったことですが」
そう前置きして、晶は華夜理の両親の話を語った。
華夜理が十歳の時に交通事故で亡くなったこと。
晶が十三歳になり、この家に来るまで、家政婦と心の通わない生活をしていたこと。
間宮小路家の財産が莫大なものであり、それを晶の両親を始めとする華夜理の親族が狙っていること。
そして華夜理の記憶の混乱。
全てを聴き終えた暁子は額を押さえていた。
あの華奢な少女に、ここまでの試練が課されていたなど思いも寄らなかった。
けれどまだ、訊かなければいけないことがある。
テーブルに両手をつき前傾姿勢になる。
「晶君。華夜理ちゃんのことが好きですか?」
「もちろん。好きですよ」
「誤魔化さないでください。異性として好きかと訊いているのです。返答次第では私、この家の今の状態を見過ごすことが出来ません」
「どうやって?」
冷やかに、晶が尋ねる。
「どういう方法を以てしても。誤った環境に、華夜理ちゃんを置いておくことは出来ません」
晶がソファーから立ち上がり、張り出し窓に歩み寄る。暮色に、少年の姿が紛れそうだ。
「僕でさえ持て余しているこの、心を。安西先生。貴方と言えど侵害することは許しません。華夜理の為を思ってくれていることは感謝します。ですが、ならば猶更のこと、僕たちを見守る役割に徹してくれませんか。……華夜理は貴方を好いている」
後半は懇願とも取れる内容の台詞だった。
暁子はこくりと咽喉を鳴らした。
今更ながら、咽喉の渇きを思い出した。