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其ノ拾陸

 体術の心得は幾らかある。 

 けれど晶が実際に人を殴ったのは、これが生まれて初めてだった。

 華夜理から浅羽を引き離し、有無を言わさず殴りつけたのだ。

 華夜理が上げた悲鳴に、はっと我に帰る。


「嫌…嫌よ…お父さん…お母さん……死なないで、死なないで浅羽」


 今の華夜理は人を傷つける行為に対して極端に憶病になっている。傷つける、イコール死と直結した思考になってしまっているのだ。

 晶は浅はかな自分の行動を悔い、改めて華夜理の両肩に手を置き、その濡れた目を覗き込んだ。

「大丈夫。大丈夫だ、華夜理」

「晶。晶。助けてあげて」

「浅羽なら心配要らない」

 あの程度でどうにかなるような相手ではないことくらい、晶は知っている。事実、浅羽は今はもう起き上がり、切れた口元を押さえていた。

 華夜理がむずがるように首を振る。

 漆黒の髪が、扇の舞いのようだ。

「金魚を助けてあげて」


 か細い声に、改めて部屋を眺め回した晶の目にすぐ、付書院から転がり落ちた金魚鉢と跳ねている金魚が飛び込む。

 晶は急いで金魚を掬い上げ、金魚鉢の中に入れると、浅羽にそれを差し出した。

「水を入れて来い」

 殴られた上に命令された浅羽が険悪な顔になる。

「何で俺が」

「この状況の責任は、誰にある?」

 冷たい刃物を喉元に突きつけるような晶の声に、浅羽が押し黙る。

 金魚鉢を受け取ると、華夜理の部屋を出た。


 今では華夜理は寝床の上に正座し、顔を覆ってしくしくと泣いている。

 晶は息を吸って、吐いた。

 竜胆の柄の浴衣を着た少女を、精一杯慰める為に。

 自分は決して、悲しんでいる華夜理など望まないのだから。


「華夜理」

「晶。金魚は大丈夫?死なない?」

「大丈夫さ。あのくらいのことでは死にはしない」

「お父さんとお母さんは大丈夫?」

「…………」

「晶?」

「……華夜理」

「死んだなんて、本当は嘘なんでしょう?」

「華夜理。今はお眠り。朝になったら本当のことを話してあげるから」

「本当は嘘だと言ってくれるのね」

「……今はお眠り」



 浅羽が金魚鉢に水を入れ、華夜理の部屋に戻った時、部屋の惨状はあらかた片付けられ、眠る華夜理の手を握る晶の姿がそこにあった。

 晶の双眸に宿る真摯で澄んだ光に、浅羽の心がなぜか疼いた。自分が介在する余地のない、美しく閉ざされた空間に足を踏み入れた覚束なさが浅羽にはあった。


「……水入れてきたぞ」

 話すと切れた口の端が痛む。左頬も明日には腫れるだろう。諸々のことが、浅葱にまで露見するのだと思うと、浅羽は暗澹たる思いになった。


「ああ。付書院に置いておいてくれ。それから浅羽。こうなった事情を説明してもらおうか。事と次第によっては、君をこのうちに出入り禁止にする」

「……華夜理がそこまでひどい状態だなんて、思わなかったんだ」


 浅羽は言われた通り、金魚鉢を付書院の端に慎重に置いてから、晶に答えた。


「その様子だと今夜が初めてじゃなさそうだな」


 もう二、三発、殴っておけば良かったよ、と物騒なことを呟く間も、晶はずっと華夜理の手を握り、その寝顔から目を逸らそうとしない。

 浅羽の胸に燻るものが、弾けた。


「悪いかよ!見合いの件を忠告しに来てやってたんだよっ。どうせお前は華夜理に話さえしてないだろうと思ったからな。挙句、お前んとこのばばあに華夜理はいたぶられてんじゃねえか。お前の落ち度だろうがよ!?」

「声量を落とせ。華夜理が起きる」


 冷静な晶の声に浅羽も我に帰り、体内に籠った熱を何とか無理矢理、冷却させた。


「おい、場所を移そうぜ。話はまだある」


 そこで初めて晶が浅羽を見て、それから華夜理を名残惜しそうに見つめたが、彼は浅羽に頷いた。




「ずっとあんな調子なのか?」


 深夜の座敷は冷えていて、暖房を入れたばかりではまだ温もりも少ない。だがそのぶん、澄み切った夜の空気が青々しい()(ぐさ)の香りと相まって清新さを感じさせた。

 縁側に繋がる閉め切った障子の向こうからは月光が射し込み、青い畳に美しい陰影をつけている。

 浅羽はスタジアムジャンパーを、晶はパジャマの上に厚手のカーディガンを羽織り、屋久杉の卓に向かい合って着座していた。

 浅羽の問いに、晶は少し間を置いて答えた。

「僕が知る限り、華夜理は夜に記憶の混乱状態に陥ることが多い」

 答える晶の顔半分に月光が当たり、端整な面立ちを際立たせている。

「だからあいつを閉じ込めてんのか」

 浅羽の斬り込みは容赦なかった。

「おかしいと思ったんだよ。幾ら病弱だからって、昼間も家に籠りっ切りだなんて身体に毒だってな」

「外の空気に当たるのに、季節を選ぶのは本当だ。華夜理は実際、病弱なんだよ……。そうして一人で外に出た時、記憶の混乱が起こらない保障はない。僕が常に華夜理の外出に同伴するのはそれを未然に防ぐ為だ」

「一人で昼間、家にいるぶんには良いのか?」

 晶が頷く。

「今のところ、そうだ。伯父さんたちの事故死が、夜だったのも関係しているのかもしれない」

「成る程な」


 浅羽は腕を組んで、考え込む様子だった。左頬がもう、腫れてきているのを見て、晶はほんの少しだけ後悔した。


「華夜理はこの飾り立てられた小箱みたいな家で、生きるのが一番安全なのか。けど本当にそれで良いのか?晶。あいつが小箱に引っ込めば引っ込む程、お前の母親みたいにつけ込もうとする連中は湧いて出るぞ。間宮小路の財産にはそれだけの魅力があるからな。お前だっていつか独り立ちして、いつまでも華夜理の面倒を見る訳には行かないだろ。俺たち霞を喰って生きてるんじゃないんだ。それともお前、華夜理の将来まで背負う積りか?その歳で結婚まで考えてるのか?」


 浅羽がまくし立てたあと、座敷に沈黙が落ちた。

 月光の移ろいだけが沈黙を彩る。

 青い藺草が若者たちを傍観している。


「浅羽……」

「あ?」

「柘榴は好きか?」

「とち狂ったかよ、お前」

「狂ってないから迷ってるんだよ」


 そう言って、晶は障子のほうを向き、月光に目を細める。細い銀縁眼鏡が皓い光を反射する。


「いっそ狂えれば…礼装の小箱でも華夜理を幸せに出来るかもしれないのに」


 晶は眼鏡を外して、パジャマの袖口で乱雑に磨き始めた。

 らしくないそれは、この会話を切り上げるという晶の意思表示だった。







挿絵(By みてみん)








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