其ノ拾伍
その次の次の晩。
またほとほとと明かり障子を外から叩く音がして、華夜理は寝床から抜け出し、丹前を羽織ると明かり障子を開けた。
薄く鋭利な刃のような寒気がたちまち部屋に入り込み、外にはやはり悪戯顔の浅羽が立っていた。
当然、華夜理が入室を許可するものと思い込んでいる。
浅羽の向こうには松の黒い枝に月が光を投げ掛けている。
華夜理は数瞬、迷ったが、金魚鉢や本を付書院の端に寄せた。
「さんきゅ」
靴を脱いだ浅羽が身軽に上り込む。
上り込みながら、言った。
「寝てろ、お前。熱がまだあるんだろ」
自分が起こした癖に、と思いながら、華夜理は寒気に負けて大人しく寝床の中に戻った。
浅羽が明かり障子をぴしゃりと閉めると、寒気が遮断され、部屋を空調の温もりが支配する。
浅羽が華夜理の横にどかりと胡坐を掻き、先日の夜のようにスタジアムジャンパーを脱ぐ。
「何しに来たの?」
華夜理は喧嘩を売る為ではなく、純粋な疑問に駆られて浅羽に尋ねた。思えば先日、浅羽が来た時の目的も不明瞭だった。見合いの話をしていた気がする。
浅羽はむっとした顔で答える。
「間宮小路の、晶の母親が来ただろ。釣書っつー、迷惑な土産つきで」
「それで?」
「心配して来てやったんだよ。本当は昨日も来たんだけど、お前は寝入ってたのか、窓を開けてくんなかったからさ」
華夜理は熱のある顔で微笑んだ。その微笑みは花の蕾が綻ぶようだった。浅羽の目が大きくなる。
このぶっきらぼうな少年は、自分を心配して、わざわざ夜の中、決して近くはない距離を通って来てくれたのだ。
素直に感謝の念が湧く。
「ありがとう。ごめんね。昨日は、今日よりも熱が高くて、寝るのも早かったの……。でも大丈夫よ。叔母さんがいる時、浅葱が来てくれたの。叔母さん、すぐに帰って。助かったわ……。私一人だったら、叔母さんに押し切られていたかもしれないもの」
「晶の差し金だろ」
華夜理がまた微笑む。
「ええ、そう。晶はいつも私を助けてくれるの」
「で、どっちに惚れた?」
「え?」
「女ってそういう時、気持ちが傾くだろ。窮地から救い出してくれた男にさ」
「浅葱も晶も好きよ?」
華夜理が小首を傾げると同時に黒髪が遠慮がちに流れた。
それを見ながら浅羽は嘆息する。
「頭ん中まで親指姫かよ。まあ良いや、お前。浅葱はやめとけよ」
「どういう意味?」
「あいつには好きな女がいる。惚れても不毛だ」
華夜理の切れ長の瞳が丸くなる。
「そうなの。知らなかった……。叶うと良いわね」
「本心か?」
「本心よ」
「ふーん」
話しながら浅羽は、自分が心のどこかで安堵していることに気付いた。だがそれがなぜなのかを追求するのはやめた。そんな浅羽に、華夜理が懇願する。
「浅羽。金魚に餌をあげてくれない?今晩はまだあげてないの」
一瞬、どうして俺が、と言いそうになった浅羽だが、華夜理の明らかに熱により潤んだ双眸と苦しげな息遣いに、その言葉を呑み込んだ。
立ち上がって付書院まで行くと餌の入ったケースの蓋を開ける。
「量は適当で良いんだな?」
「二摘まみくらいでお願い」
白に朱色の模様のある大きな一対の金魚は、浅羽の撒く餌に嬉々として飛びついた。水の中で細かな泡が生まれて躍る。
「現金なもんだな……」
「いつかその金魚鉢の何倍もある、多角形の水槽を晶が作ってくれるのよ。極彩色の」
「はいはい、アートアクアリウムな」
前も聴いたよ、と思いながら、浅羽の頭にある可能性が閃き、ひやりとする。
もしかしたら華夜理はそのことを憶えていないかもしれない。
彼女の傍らに再び胡坐を掻き、浅羽は華夜理を不思議な生き物を見るような目で見た。
不思議で無邪気で美しく、他を翻弄する生き物――――――。
そんなものが目の前に横たわっていると思うと、浅羽の胸は微かに騒いだ。
「ねえ、浅羽」
「うん?」
「本を読んで頂戴」
「はあ?」
呆れ顔の浅羽に、にこにこと華夜理が言う。
この顔は、と浅羽の頭に警鐘が鳴る。
「お父さんとお母さんが帰ってくるまでで良いから」
やはりだ、と浅羽は思う。
今の華夜理は幼児退行している。あの夜と同じように。
それ程に傷は深いのか―――と浅羽は痛ましさで胸が苦しくなった。
無償の愛を注いでくれる両親を、幼児期に突如として喪うという事実の重さに浅羽自身が打ちのめされるようだった。
付書院を振り向き、立ち上がってそこから適当と思われる本を探した。華夜理が幼児退行しているのなら、宮沢賢治あたりが良いかもしれない。と、言うより、その他の本は大人が読むような本で今の華夜理には難易度が高いと思われた。
浅羽が『銀河鉄道の夜』を持って華夜理の枕元に戻ると、華夜理はうとうととして、もう少しで眠りそうだった。それでも華夜理は戻った浅羽に童女の笑みで乞うた。
「本を読んで?」
「……ああ、解った」
『銀河鉄道の夜』には他に「グスコーブドリの伝記」と「雁の童子」が所収されていた。
浅羽はそこではたと思う。
『銀河鉄道の夜』ではカムパネルラが死ぬではないか。
宮沢賢治の物語自体に、生死をテーマにしたものが多いのだ。浅羽は迷った末、比較的無難そうな「グスコーブドリの伝記」を読み始めた。上手くすれば話が穏便な内に、華夜理は寝てしまうかもしれない。
「グスコーブドリは、イーハトーブの大きな森の中に生まれました。……」
ところが浅羽の意に反して、華夜理の目は朗読が始まるや否やぱっちりと開いてその澄んだ輝きを見せた。
賢治の好んだ星とか、鉱物みたいだ、と浅羽は思う。仕方なく朗読を続けた。浅羽の声は低く深く、華夜理を物語世界へと誘った。
「……〝石油がながれればなんだって悪いんだ〟〝オリザみんな死ぬでないか〟〝オリザみんな死ぬか、オリザみんな死なないか、まずおれの沼ばたけのオリザ見なよ〟……」
ここに来て浅羽はしまった、と思った。この物語でもやはり死が取沙汰される。
華夜理を見ると彼女は目をいっぱいに見開いて細かく震えていた。
「おい、大丈夫か」
「そうよ、お父さんもお母さんも死んだのよ、石油が流れなくたって人は死ぬの、死ぬのよ。浅羽。ねえ、どうして私だけが生き残ったの?みんな死ぬか死なないかなら、どうして、どうして私だけが」
起き上がり、暴れる華夜理はまるで花の嵐のようだった。
書院造の中に吹き荒れる。
その内、華夜理の手は金魚鉢に当たり、鉢は引っ繰り返った。
硝子が割れはしなかったが大きな音と共に水が畳に溢れ、いきなり呼吸の出来なくなった金魚たちが水を求めてびちびちと飛び跳ねている。
部屋の中で舞うように暴れる華夜理。それは狂乱の美を思わせる。
浅羽は必死になって華夜理の手首を掴むと引き寄せ、細い身体を抱き締めた。それは拘束の一手段だった。
その時、襖が前触れなく勢いよく開いた。
晶だ。
物音を聴いて駆けつけたのだ。
「華夜理!?」
そして部屋の惨状、密着した華夜理と浅羽の姿を目の当たりにする。
晶の表情が凍りついた。
岩崎書店 新版宮沢賢治童話全集『銀河鉄道の夜』より引用。