其ノ拾肆
飴色の廊下を進み、襖のこちらから華夜理に声を掛ける。
そっと、晶の出せる最も穏やかな声で。
「華夜理?ホット檸檬ジュースを作って来たよ」
返事はない。晶の声は檸檬ジュースの上げる湯気と共に空気に揺らめき紛れた。
襖を慎重に開ける。下半分に川面と銀の薄、鷺が描かれた襖は滑らかに開いた。
華夜理は部屋の中央に敷かれた布団に寝ていた。
「…………」
晶は襖を静かに閉めると、眠る華夜理の枕元に座る。その横にはホット檸檬ジュースの入った硝子コップの載った盆。今も白く幽かな湯気を上げている。
漆黒の髪。長い睫毛。赤味の差した頬。
――――――唇。
いつもの桜貝のようでなく、赤い珊瑚のように艶めいた唇から、晶は目を逸らした。
呼吸が苦しげなのは、熱が高いせいだろう。
安静にしておかなければいけないのに、自分の母のせいで華夜理は症状を悪化させてしまった。晶は母親を強く嫌悪した。今、ここに母がいれば、華夜理の枕元だということさえ忘れて、母に罵声を浴びせたかもしれない。
けれど問題は、と思う。
母以上に華夜理にとって、自分が為にならない存在かもしれないことだった。
浅葱に嫉妬したのは、単なる独占欲からか。それとも――――。
〝華夜理は僕にとって誰より慈しむべき存在だよ〟
浅羽に言った言葉に、嘘はなかった筈なのに。
華夜理の着る浴衣の袖が布団から出て、竜胆がそこに咲いていた。
その花言葉は。
〝悲しんでいる貴方が好き〟
〝お父さんと、お母さんは、まだ帰らないのかしら?〟
そこに昏い愉悦はなかったか。
さながら竜胆の花言葉のように、両親の死を未だ困惑の中、受け留め切れず悲嘆に暮れる華夜理の心を、自分だけが間近で独占出来るという歓びはなかったか。
柘榴を食べさせたいなどとなぜ言った?
いずれ離れ行くのであろう華夜理を、ハデスのように繋ぎ止めておきたかったのか。
書院造の部屋には文机、桐箪笥、本棚などがある。
文机は側面に無花果の彫られた、赤い漆塗りの物だ。
晶が修学旅行で京都に行った折り、骨董品店で買い求めた。品物の値段はまだしも、送料がかなり掛かったことを思い出す。
それでも華夜理に贈りたかったのだ。
その文机の上には、梅や小菊が螺鈿細工で象られた、黒い漆塗りの櫛が置いてある。赤い漆塗りの上に黒い漆塗りのコントラストは一枚の絵のように美しく映えた。その櫛は華夜理の母の形見だ。
晶は厳粛な面持ちで漆塗りの櫛を手に取ると、寝ている華夜理の扇のように広がった漆黒の髪を梳いた。
何度も、何度も梳いて。
まるで贖罪を乞う人のように。
「……晶?」
「華夜理。ごめん、起こした?」
華夜理の目は見開かれ次に潤んだ。
「晶…………」
浅葱が来るまで病身で、たった一人で栄子と対峙しなければならなかったのだ。
「ごめんね。辛かっただろう」
晶は華夜理を抱き締めたい衝動を堪えた。
そしてまた、その衝動が庇護欲から来るものか、別の感情から来るものかと頭の片隅で考えた。
外はもう陽が落ち、部屋に寒気が忍び寄っている。晶はそれに気付かない自分に舌打ちしたい思いで、空調の温度をリモコンで上げる。
「浅葱が来てくれたから」
「うん。良かった」
晶は知らず右手で拳を作る。
「ありがとう、晶」
「え?」
「晶に頼まれたって浅葱が言ってたわ。だから、ありがとう」
「…………」
ことり、と螺鈿細工の櫛を文机に置く。
煌めく小菊と梅と葉。
この、華夜理の言葉と微笑みだけで充足される想いは何だろう。
誰より彼女が大事だ。その事実は恋愛であるなしに関わらず、変わらない。
「叔母さん、お見合いの話を持ってきたの」
「ああ。母は、父もだけど欲望の権化みたいな人だから、……自分の思うままに出来る男と君を結婚させることで、この間宮小路家の財を好きなようにしたいんだ。本当ならこんな俗な話、華夜理に聴かせたくなかった」
華夜理が眉をひそめる。
それから晶の横に置かれたホット檸檬ジュースを見る。
意を察した晶は華夜理が起きるのを手伝い、ジュースのコップを渡してやった。硝子を通して感じる温度は、もうだいぶ温くなっていた。
こく、こく、こく、と、白い咽喉が動く。
華夜理はふうと息を吐いて、改めて言った。
「私、まだ結婚なんて嫌だわ」
「解ってる」
「――――晶だって嫌でしょう?」
その質問はどういう意図から為されたものか。
晶は目の前の華夜理をベルセフォネーだと思った。
貴方だって私を手放したくないでしょう、と。
無垢のままに幻惑する。
晶は明かり障子に顔を向けた。
「僕は華夜理の意志を尊重するよ」
模範的な回答だった。そして何より避けるべき回答だった。
しばしの静寂のあと、明かり障子から顔を戻した晶はぎょっとした。
華夜理が静かに泣いていたのだ。
「華夜理」
「ずっと傍にいてくれないの?」
今の華夜理が正気か否か、晶には測り兼ねた。
知らず、動く唇。
「華夜理が望むならずっと傍にいるよ。でもその為には華夜理は柘榴を食べなくちゃいけない」
言いながら、晶には自分が解らなかった。
これではまるで。
これではまるで――――。
狼狽える晶の顔を、まだ涙の残る顔で、華夜理が見ていた。