其ノ拾弐
やがていつもの黎明が来た。
輝かしい次の時代への始まりの時期を黎明期と呼ぶのであれば、いつも、毎日の始まりが輝かしい時間を保障していることになるのだろうか。
華夜理は寝床の中で気怠く寝返りを打ちながらそんなことを考える。まだ身体が熱いようだ。今度の風邪も長引くのだろうか。余り長引いては週末、晶とプラネタリウムに行くことが出来なくなる。天の川の光る砂粒を、晶と一緒に観たいのに。けれど華夜理に熱があれば、晶は決して外出を許さないだろう。
この場合、約束を破るのは華夜理だろうか。晶だろうか。
華夜理は嘆息した。
考えるまでもなく、自分だ。この、脆弱な身体のせいで、今まで何度、自分自身と晶とを嘆かせてきただろう。華夜理はそう思うと泣きたくなった。
「華夜理。起きているかい?」
晶の呼びかけも、今日の華夜理の病状を見越してのことだ。
――――――周到に、自分の先回りをしようとする。
華夜理は八つ当たり混じりの悔しさで、目尻に涙が滲んだ。
解っている。晶は悪くない。ただ如才ないだけで。
ただ華夜理の身を思っているだけで。
ただ。
柘榴を食べさせたいと言った癖に!
華夜理は自分でも何に腹を立てているのか解らなかった。
襖の向こうで晶が返事を待っている気配がする。
「晶……」
華夜理は涙声なのがばれないよう、それだけを答えた。
襖が遠慮がちに開く。
晶はいつもの、白シャツに黒のスラックスを着た端整な姿で、するりと部屋に入る。寝床に伏したままの華夜理の枕元に跪いた。貴公子が、姫君に添うように。
「熱があるんだね?」
そう言うと晶は返事も待たず、華夜理の額に手を当てて、穏やかな、しかし断固とした口調で告げる。
「今日も寝ておいで」
「晶は――――」
晶は一緒にいてくれないの?
そう言いそうになった華夜理は、危うく言葉を呑み込む。
本当に、今日の自分はどうかしている。
「うん?」
「……何でもない」
「……傍にいてやれなくてごめんね」
華夜理は驚いて晶の顔を見た。まるで心の声が届いたかのように思ったのだ。
晶とて、華夜理の胸の内を察していない訳ではないのだと、その発言は証明していた。
晶の銀縁眼鏡の向こうの双眸が真摯に光る。
「なるべく早く帰ってくるよ。だから華夜理は寝ていてくれ。安西先生には、また頼んでおくから。…何か欲しい物とか、食べたい物はある?」
「柘榴とか?」
途端に晶が困ったように眉尻を下げた。
「あれは僕の失言だよ。この時期、柘榴はないし」
「解ってる」
華夜理はくすりと笑う。
いつも沈着冷静なこの従兄弟を、少し困らせたくなったのだ。
それは本当に僅かなことではあったが、華夜理の気持ちはだいぶ晴れた。
晶が退室してから、華夜理は金魚に餌をやろうとして、付書院の金魚鉢を見た。それからいつもと金魚鉢の位置がずれていることに気付き、小首を傾げる。透明硝子の金魚鉢は、いつもよりずっと端に寄せられていた。数冊の本の位置も端に寄せられている。
まるで誰かが通る為にそうされたようだ。
怪訝に思った華夜理は明かり障子を開けた。
明かり障子の外の庭の地面に、確かに靴跡がある。
(夢じゃなかったの?)
昨晩、浅羽が部屋を訪れた夢を見たと思った。だがそれは華夜理の思い込みで、実際にあったことなのだ。そして華夜理はこのことを、晶には知られてはいけないと思った。
黎明が鈍色の雲の向こうに朝日を連れてこようとしていた。
その日、暁子が帰ったあとに異変は起きた。
華夜理が、晶が作っておいてくれた粥を食べて、また寝床に戻ろうとした時。
呼び鈴がけたたましく鳴り響いた。
「…………」
晶には、暁子以外には応対に出ないように言われている。
しかしその呼び鈴はまるで雄鶏の鳴き声のように、華夜理の頭をつんざくように痛めつけた。
華夜理は大輪の菊や松、百合などを横目に玄関の引き戸へと向かった。
「……どちら様ですか?」
「華夜理ちゃん?華夜理ちゃんね?開けて頂戴、話があるの」
晶の母――――華夜理の叔母の声に、華夜理は身を固くする。
「開けて頂戴、早く。ここは寒いのよ」
「…………」
「華夜理ちゃん」
追い返す訳にも行かず、華夜理は丹前の袖を一度ぎゅっと握り締めると、引き戸の鍵と引き戸を開けた。
叔母は、晶とよく似た顔立ちをしているのに、与える印象がまるで違った。
濃い化粧に彩られた顔からは晶の持つ清廉さ、端正さが感じられない。細い銀縁眼鏡のあるなしの問題ではなかった。
「あら、華夜理ちゃん。貴方、具合悪いの?」
眉をひそめた叔母の声に温もりは感じられず、ただ自分にとって有利になる要素を見出した猛禽にも似た響きがあった。
「あらあら、さあ、早く中に入りましょう。こんなところにずっと立っていてはいけないわ」
ガラガラ、ピシャッと引き戸が閉められ、当然のように叔母が中に入り込む。
華夜理の頭痛が増す。熱は体内を蝕み、倒れる寸前だった。
「応接間で話しましょ」
まるで自宅のように振る舞い、叔母が華夜理の手を荒っぽく引っ張るので、華夜理は引き摺られるように応接間に連れ込まれた。叔母の手の冷たさ。その上、彼女は指に幾つもの指輪を嵌めていたので、それが華夜理の手の皮膚に喰い込み、浅い跡を残した。
茶色い革のコートを脱いだ叔母は、これから夜会にでも行くのかと思う程、洒落込んでいた。濃緑の、恐らくは絹のツーピース。スカートは膝上までで、その下の黒いレース状のストッキングに覆われた脚を惜しげもなく晒している。ツーピースには所々に銀と黄緑のスパンコールが散りばめられ、首には大粒の琥珀のネックレスが輝いている。
品の有無はともかくとして、色彩の妙ではあると華夜理は熱にうかされた頭で思う。
そしてまた、叔母の服装はまるで密林のようだとも思った。
未開の地である密林と、叔母はどう考えても相性が良くなさそうなのに、なぜか色合い、顔形だけを見るとしっくりくる。生き強い叔母の気質がそう見せるのだろうか。
当然のように上座のソファーに座った叔母は、向いに華夜理を座らせ濃い口紅を盛んに動かしてまくし立てている。その手には純白の分厚い紙。
それを開き、華夜理に言い迫ってくる叔母は、ぐいぐいと身を乗り出して、胡桃材のテーブルを乗り越えんばかりである。
華夜理の思考は既に飽和状態だ。
ジャガード織りの素材のソファーと密林のような叔母は相乗効果で目に煩いようである。
(この、密林の獣のような人を)
華夜理は朦朧と思う。
(猟銃で撃てたなら)
ふんわりと、華夜理は笑んだ。
丁度、張り出し窓から射し込む陽光が、そんな華夜理を天使めいて見せた。
それを見て勢い込み、安堵したように叔母が口走る。
「ね?結婚するには良いお相手でしょう?」
叔母の唇がグロテスクに光った。