其ノ拾壱
熱のせいもあり、華夜理はぼんやりと浅羽を見ていた。そして明かり障子の隙間から入り込む寒気に身を震わせる。それを見て浅羽が言う。
「おい、中に入れろよ。その金魚鉢が邪魔だから横に退けてくれ」
華夜理はまだ夢現の心地で浅羽に言われるままに金魚鉢を動かした。
透明の水が突如として反乱を起こされたかのように揺れ動き、中の金魚たちが尾鰭、背鰭を動かして慌てる様子が見える。朱色と白がちらちら、いつもより目まぐるしく動き、華夜理は無邪気に綺麗、と思った。金魚の心情など置き去りにしている。
明かり障子から室内に入った浅羽は、素早く障子を閉めて寒気と部屋の空気を遮断した。
「具合悪いなら布団に入ってろよ」
「浅羽は、どうしてここにいるの?柘榴を持って来たの?」
浅羽が眉をしかめて奇妙な顔をする。
「柘榴?何の話だよ。それより見合いの話が来ただろ?」
「見合い……」
「ああ、良いからとにかく何か羽織れよ」
華夜理は素直に枕元に畳んでいた丹前を羽織った。羽織りながら浅羽は外の空気がする、と思った。凛とした夜の気配が。それは浅羽に似合うように思える。
「晶の親の斡旋だよ。聴いてないのか。あいつらしい」
「お見合いなんて、私、しないわ」
「解ってるよ。晶だってシャットアウトしただろ。けど晶もお前もまだ未成年であることには変わりない。間宮小路の家の財産は今んとこ弁護士が管理してるけど、晶の親たちは、」
「丸とね、三角とね、八角形の重なりで出来てるの」
「あ?」
急に脈絡のないことを言い出した華夜理に、流石の浅羽も面食らう。
彼には華夜理の話がさっぱり理解出来ない。
「晶と考えたのよ。そんな形と、色んな色をした水槽に、金魚を泳がせたらさぞ華麗だろうねって。実現するには難しいわ。でも、晶が考えてみるって言ってくれたの。きっと、とても綺麗よ。赤でしょ。青紫、ピンク、緑に数学的な多角形の水槽にそんな色はとても映えるわ。晶は魔法使いみたい」
浅羽は一瞬、困惑し、それから華夜理の正気を疑い、そして彼女に熱があること等を鑑みて、最終的に話に付き合うことにした。
「アートアクアリウムか」
「そう。浅羽は物知りね」
にっこりと笑顔で華夜理に褒められ、浅羽は毒気を抜かれた。
室内の空調が効いていて暑くなってもきたので、スタジアムジャンパーを脱ぐ。
「確か昔は上見の金魚ってのが普通だったんだよな。硝子水槽が発達する以前は、金魚は不透明な桶や鉢で飼って上から鑑賞するのが主流だった。それから水槽技術の発達に伴い、色んな角度から金魚鑑賞が出来るようになった」
「本当によく知っているのね。晶みたい」
浅羽はむっとした。
なぜだか解らないが、自分が受けるべき称賛を晶に横取りされた気になったのだ。面白くなかった。
そして次に続く華夜理の言葉には完全に絶句した。
「浅羽は、お父さんとお母さんがいつ帰るのかも知ってる?」
にこにこと、無垢な童女のように華夜理に尋ねられ、浅羽は返答に窮した。
そして少女の負った傷の深さを知る。
「……晶が水槽を作り上げる頃には、帰ってくるよ」
「本当ね?」
次に念押しした少女の面差しは打って変わってひどく鋭利で、浅羽はまたもや言葉を失くす。
この少女の危うさ。不安定さときたらどうだろう。
浅羽は晶の優秀さを華夜理の従兄弟としてよく知っている。
だがその晶を以てしても華夜理の危うい状態に対処しかねているのではないか。
浅葱の懸念が、今では浅羽にも解る気がした。
浅羽は幼子にするように華夜理を布団に入らせると、彼女の話になるべく的確と思える相槌を打った。
華夜理はやがて眠りに就いた。
浅羽はその熱で赤味の差した頬を眺める。
今夜、忍んで華夜理に会いに来たのは、見合いの件の報告と、晶を出し抜いてやろうという打算。
そして、水蜜桃のような頬の柔らかさが、黒髪の芳しさが忘れられなかったからかもしれないと思った。
水蜜桃は今、浅羽の目の前で無防備に晒されている。
翌日、浅羽は浅葱に起こされるまで眠りを貪っていた。
「珍しいね。いつも早起きのお前が」
双子とは言え高校生にもなるとそれぞれ独立した部屋が与えられ、浅葱の部屋と浅羽の部屋は本人たちの個性を主張するかのように趣が異なる。浅羽の部屋のオレンジ色のカーテンを開けながら、浅葱が笑った。
「水蜜桃のせいだよ」
「え?」
「こっちの話」
浅羽はスウェットの上下から制服に着替えながら、欠伸を噛み殺しつつ兄に尋ねる。
「華夜理のさ」
「……華夜理がどうかした?」
たちまち、浅葱が薄い膜の向こう側に行ってしまった印象を浅羽は受ける。
浅葱は浅羽を警戒しているのだ。
「あいつの〝病気〟って晶で何とか出来んの?」
「……解らない。ただ、晶の包容力と情、そして時間は彼女にとって何よりの妙薬だと僕は思うよ」
穏便に、諭すように語る浅葱の物言いが、浅羽の勘に障った。
「お前も華夜理も、晶を過大評価し過ぎなんだよ。あいつはまだ十七の、ガキだぜ?」
「そうだね。そして僕たちもまた、十六の子供に過ぎない。浅羽。それを忘れてはいけないよ」
「どうしてそこまで晶を信頼する?」
納得が行かず、浅羽は浅葱にまたも問う。
浅葱が触れれば融ける雪のような儚い微笑を浮かべた。
真紅のピアスに触れながら。
「彼が幸いを招くガーネットになるだろうと、僕は思っているから」