其ノ拾
青に縁取られた硝子の金魚鉢。
華夜理が餌を撒くと一対の金魚が我先にと餌に喰いつく。
白い身体に浮き出た赤い模様は紅と言うよりは朱色だ。
紅――――。
例えば柘榴の赤のような。
華夜理は竜胆の柄の浴衣に丹前を羽織り、付書院の前にぼう、と佇む。
目は金魚を見ているようで、違うものに囚われている。
〝華夜理が柘榴を食べて、ずっと僕の傍にいれば良いと思って〟
晶はどうしてあんなことを言ったのだろう。
華夜理は今まで、晶のいない生活というものを考えたことがなかった。
柘榴など食べる必要もなく、華夜理は晶の傍にずっといる。
ずっと。
大人になっても、きっと。
浅羽に啄まれた右頬に手を遣る。
……多分、晶が言っていることは、言葉の表面上だけの意味ではない。
ベルセフォネーは冥王ハデスの妻として彼と共にいたのだ。
それ以上を考えようとすると、華夜理の頭は淡い紅の霞がかかったようになって、思考不能になる。薄いヴェールを掻き分け掻き分け行く程の覚悟も執心も華夜理にはない。
(晶はハデスではないし、私はベルセフォネーじゃないもの)
その理屈が一種の逃げであると密かに自覚しながら、華夜理は飽くまでギリシャ神話の話に物事を終始させようとした。
(だって怖い)
晶の、細い銀縁眼鏡の向こうの瞳が、過度の熱を持ってしまったら。
現に柘榴を食べれば良いのにと言った晶の双眸は、静かな、ごく静かなものではあるが密やかな炎を点してはいなかったか。
それは青く揺らめく炎のようで。
紅と言うよりもっと高温の寒色の火のようで。
一対の金魚が自然に寄り添っているように、自分と晶も名づけられないままの感情で寄り添うことは出来ないのだろうか。
華夜理は考えながら、『源氏物語』五十一帖浮舟を手に取り、ページをめくった。
薫君と匂宮の二人の男性に愛された浮舟は、最終的に死を決意する。
(……納得いかないわ)
日頃は自然に読める王朝文学が、今の華夜理には妙に癇に障った。
(浮舟は、薫君の愛情だけでは満たされなかったのかしら)
寝床に入ってからも考える。
(晶は、薫君にちょっと似てるみたい)
考えながら華夜理は夢に落ちた。
夢の中では晶が華夜理に柘榴を差し出し、食べるように促す。
あたりには金魚が重力を忘れたようにそこかしこに舞う。
差し出された柘榴を、いつの間にか現れた浅羽がひょいと取り上げ食べてしまった。少年の口の端から、柘榴の欠片がこぼれ落ちる。
食べ終えた浅羽は口元を拭い、挑発的な笑みを晶に向ける。晶はそんな浅羽を邪魔者を見る目つきで睨んだ。
気付けば華夜理は小袿を着て、晶と浅羽から求愛の歌を贈られ困惑していた。
何の脈絡もなく晶が、柘榴をお食べと再び迫る。
すると浅羽がにやりと笑い、彼自身が柘榴へと変化する。
柘榴をお食べ。
さあ、この柘榴を。
「見合い?」
翌日の早朝、朝食を作り終えた晶のもとに、母から電話がかかってきた。
「華夜理が何歳だと思ってるんですか。まだ早いですよ」
『でもね、晶。身元のしっかりしたご立派な方なのよ。華夜理ちゃんもいつまでも貴方と暮らす訳にいかないでしょう。この際、良縁を結んで、華夜理ちゃんの立場をしっかりさせてあげるべきだと思うの』
晶は眉をひそめた。
母の魂胆は明白だ。彼女は、思い通りにならないどころか、華夜理の防波堤となっている晶を追い遣り、自分たちの思惑に沿う人物を華夜理に宛がうことで、この家の財産を自由に使いたいのだ。
「白々しいですね、お母さん。そんなに伯父さんたちの遺産が欲しいんですか」
『――――今、そういうことを話してないでしょう。とにかくこのお話、貴方から華夜理ちゃんに伝えて頂戴な。近い内に、先方の釣書を持って行くから』
「不要です」
晶はひどく冷淡な声で切って捨てた。そのまま受話器を置く。
白色のつるりとした家用電話を、晶はじっと見据えた。
まるでそこに相対する敵がいるかのように。
華夜理が座敷に来る前で良かった、と晶は思った。
しめじと法蓮草、人参の白和えに箸をつけた華夜理が、こんこん、と咳をした。
晶が敏感に反応する。
「華夜理。熱があるんじゃないかい?」
「平気よ、晶」
しかし晶は立ち上がると、座敷の隅に置いた救急箱から体温計を取り出してくる。
しまった、と華夜理は小さく舌を出した。
三角に切り取った赤い天鵞絨のようなそれをくるりと振り向いた晶に見られ、気まずい思いをする。晶は頓着せず、華夜理に体温計を差し出した。
「……やっぱり熱があるね。昨日、無理をさせ過ぎた」
「浅葱たちが悪いんじゃないわ。私がいけなかったの」
「解ってるよ。誰も悪くないってことくらい。強いて言うなら、華夜理の不調を知りながら、放置してしまった僕の責任だ」
晶の自嘲に、華夜理は悲しく首を振る。
「安西先生には看病をお願いするから。今日は布団で寝ているんだよ」
よく見れば華夜理の皿の上の物は、ほとんどが一口二口食べられただけで、大半が残ったままだった。
華夜理は、晶に一緒にいて欲しいという言葉を呑み込み、頷いた。
熱のある一日は緩慢に過ぎる。時が、引き伸ばされたゴムのように。
暁子は林檎を剥いたり檸檬ジュースを作ったりと、濃やかに華夜理の世話を焼いた。
華夜理が熱にうかされた目でそんな暁子を見る。
小動物に見つめられているようで、暁子はひどく庇護欲をそそられた。
「ねえ、先生」
「何ですか?」
「先生は柘榴を食べたい?」
「え?」
意味不明の質問に、暁子は戸惑う。
透き通るような華夜理の頬は今はやや赤味を帯びている。
熱が高い証拠だ、可哀そうに、と暁子は思う。
「晶がね、晶が」
その名前を華夜理は繰り返す。
「……晶が望むのなら、私は柘榴を食べるけど、でも多分、そういうことじゃないと思うんです」
華夜理の語りは病人特有の不明瞭なものに思えた。
しかし暁子は、それ以上に危機感も覚えた。
華夜理は進んで晶の束縛を受け容れようとしているのだろうか?
――――――不健全な関係。
一度、晶とはちゃんと話をしなければならないと暁子は感じる。
それは大人としての責務だ。
その夜。
華夜理はまたも金魚が舞い遊ぶ夢の中を揺蕩っていた。凍りついた地面にはそこここに柘榴の実が点々と落ちている。
これを食べるより他はない。
夢の中の華夜理は思った。
そうすれば。
そうすれば。
そして夢は唐突に破られる。
明かり障子を、外からほとほとと叩く音に、華夜理の耳が鋭敏に反応したのだ。
訝しく思いながらも障子をそっと開ける。たちまち、寒気が部屋に流れ込む。
「よう、親指姫」
明るい色の髪。
星の輝きの下、スタジアムジャンパーを着た浅羽が笑って立っていた。
柘榴を持って来たのかしら、とまだ夢から完全に覚めやらぬ華夜理は思った。