其ノ壱
春まだき。仄白い桜の花も咲き初めぬ時節。
華夜理は障子が灰鼠色からうすら白くなりつつあるのを見届けると、寝床から起き出した。
鉄線柄の濃紺の夜着の浴衣をするり、と脱ぐと、雪のような柔肌に漆黒の長い黒髪が滝の流れを幾筋か作る。
肌襦袢や裾よけを着ける。華夜理は腰が細いので、タオルで幾分、補正しなくてはならない。紐で長襦袢を結び、伊達締めを結ぶ。それから黒地に大きな薔薇を友禅染の技法の一つ、堰出しで表し、小さな薔薇が手描きされた着物に白銀の帯を合わせる。帯締めは明るい朱色。
華夜理の部屋は書院造風になっていて、これは家を建てた当時の人間が好んでそうしたものらしいのだが、明かり障子の前、付書院には数冊の本が積み上げられ、違い棚の上の段には小さくころんとした形の備前焼に土筆と菫が活けてある。華夜理の手になるものだ。
着付けを終えた華夜理は朝食までの間、本を読もうと付書院に手を伸ばす。
華夜理の白魚のような手はしばらく『源氏物語』五十一帖浮舟と『銀河鉄道の夜』、そして『啄木全集』第三巻の上を彷徨っていたが、やがて『銀河鉄道の夜』の上に落ち着いた。
灯りを点けずに読むにはまだ日の弱い時間帯だ。
華夜理は寝床の枕元に置いてある、紫やら青、緑など彼女好みの色合いで象られたステンドグラスの電気スタンドを明かり障子の前に移動させると、本を開いた。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じように自分で光っている星だと考えます…」
華夜理は気に入った箇所を声を上げて朗読する。
それは美しい小鳥が楽しげに囀る様にも似ていた。
華夜理の白皙の片頬をステンドグラスの寒色を通した灯りが照らし、肌理の細かさを際立たせる。
密やかに動く唇は、一対の桜貝にも似ている。
一対の桜貝の動きは、もうすっかりと日が昇り切り、灯りが不要となるまで止まらなかった。
華夜理は本をぱたりと閉じると、黒地の袖で口元を覆い、思案する。朝食前ではあるが、香を焚きたい。ちらりと、違い棚の下段に置かれた青磁の、精緻な細工が施された香炉を見る。香炉の天辺には小さな唐子が躍っている。
伽羅が良いだろうか。それとも麝香?それとも白檀…。
本を選ぶ時と同様、華夜理はしばし思案して、違い棚の下に置かれた数種類の香から、麝香を選びマッチを擦って火をつけると香炉の中に置いた。
麝香はムスクとも呼ばれ、ジャコウジカから取れる原料を元にしている。
神秘的な香りが白濁の煙を伴いふわりと部屋に満ちる。
満足した華夜理はそれから付書院の端に置かれた透明硝子の金魚鉢に、餌を撒く。
青い波形の線で縁取られた金魚鉢の中、白に赤い模様のある大きな一対の金魚が悠々と泳いでいる。
それを見ながら、麝香の匂いを朝食の席にもたらせば、晶は嫌がるだろうか、と華夜理は考えるが、首を振ってすぐにその思念を打ち消す。首を振った拍子にさらさらりと髪が泳ぐ。
きっと晶は、少し眉根を寄せるくらいで、大したお小言も言わないだろう。
何と言っても晶だから。
華夜理の一対の桜貝からふふ、と笑みがこぼれ落ちる。
金魚は何も知らぬ気に、鱗の細かな輝きをちらちら水中で反射させていた。