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「粉雪」

黄色い本

作者: さわいつき

 目の前で雑誌を読み耽っている彼の手が、テーブルの上のマグカップを掴む。もう半ば冷めているであろうコーヒーを喉に流し込む様を眺めていて、ある事に気がついた。

「あれ? 灰皿は?」

 つきあい始めた当初、彼は日に四十本つまり二箱のタバコを吸っていた。暇さえあれば吸っているといった感じだった彼だが、そういえば最近は吸っていなかったような気がする。

 テーブルの下を覗いてみてもボードの上を見ても、灰皿はおろか、水色の箱さえも見当たらない。

「やっと気がついたのか」

「え。なに。もしかして、やめた、とか?」

 煙いからわたしの前では吸わないでとお願いしても、仕事でストレスがたまった時に吸うと頭がすっきりするんだとか、そんな事を言っていた、はずなのだけれど。

「受動喫煙は、直接喫煙よりも悪いんだろうが」

 そう言いながらわたしに投げてよこしたのは、黄色い表紙の一冊の本。これを読んで禁煙に成功した人が続出したなんて、少し前に巷で話題になっていた本だ。

「え。これ、読んでやめたの?」

「それを買った時には、一日七~八本まで減らした後だったがな」

 どうせお前はそんな事にも気が付いていなかったんだろうが、などと鼻でせせら笑われても、不思議なくらいに腹が立たなかった。

 受動喫煙による健康被害については、ここ数年テレビでも取り上げられているくらいに問題になっている。曰く、喫煙者が吐き出す煙草の煙は、直接体内に吸い込む煙よりも発癌性が高くなるのだとか。つまり、喫煙者のすぐそばにいる人は、非喫煙者であっても喫煙者よりもさらに高い確率で肺癌の危険にさらされるらしい。

 わたしの家族は、父以外には喫煙者がいない。つまり母もわたしも兄も弟も、父の吐き出す煙草の煙の受動喫煙の被害に晒されているわけだ。それをいくら説いてみたところで、父が聞く耳を持たないのだから困ったものだ。

 昔は一日三十本は吸っていた父も、さすがに最近では十本程度に減り、換気扇の下や家の外に出て吸うように心掛けてくれてはいるのだけれど。

「で、禁煙、成功したんだ。この本で?」

「最終的には、そういう事だな」

 心なしか威張っているようにも取れるその口調が、どこか誇らしげでおかしい。

 もっとも最近では、電車も公共の場も、どんどん禁煙の傾向が強くなっている。彼の勤め先の会社も少し前から、会議室でさえ禁煙になったと聞いていた。果たしてこの禁煙は、わたしのためなのかそれとも彼自身のためなのか。恐らくはその両方なのだろう。

「その本、俺はもういらんから、親父さんに渡してやれ」

「あ。それ、無駄だと思う」

 少し前に一緒に買い物に行った時、父は本屋で平積みされているこの本を手に取っていた。買ってあげようか、とわたしが言ったら、ざっと目を通しただけでそのまま本の山の上に戻していたのだ。

「孫ができるまでには、やめてもらいたいところなんだがな」

「は? なに、それ。孫? って、お父さんの、孫?」

 ちなみに、今はまだ中学生の弟には、おつきあいしている彼女はいない。兄も、ここ数ヶ月は独り身のはずだ。少なくともわたしが知っている限りでは。という事は。

「俺にとっては、息子か娘だな」

 彼にとっての息子か娘で、父にとっては孫という事は、それは、つまり。

「もしかして、わたし、の、こど、も?」

「他に誰がいるんだ」

 彼の言わんとしている事を理解したとたんに、一気に頬が熱くなる。そんな何気ない口調で思いきりとんでもない事を言わないでほしいと、切実に思った。

「せっかく俺がやめてやったんだから、間違ってもお前は、タバコなんぞ吸うなよ」

「い、いや、まあ、わたし、まだ高校生、だし?」

「そういう意味じゃないだろうが」

 という事は、やっぱりそういう意味ですか。そうですか、そうなんですか。

「う、うわー」

 なんだかさらにすごい事を、さらっと言われてしまった気がする。

「な、なにか、変な物でも、食べた?」

 じわじわと吹き出て来るこの汗は、決して暑さのせいじゃないだろう。

「いや。そういえば腹が減ったな」

「じゃ、じゃあ、何か食べに、行く?」

 話題が逸れた事にほっとしながら時計を見ると、まだ十一時にもなっていない。当然の事ながら、午後ではなく午前。昼食には早すぎる。

 そう言おうと思ったら。

「とりあえず、お前を食うかな」

 にやりと歪んだ口元が、妙にいやらしく見えた。

「え。いや、わたしなんか食べても、きっとお腹を壊すと思うよ、うん」

「今まで無事なんだから、大丈夫だ」

 何が大丈夫なんだか分らないけれど、わたしはにわかに身の危険を感じて立ちあがった。手にはぬかりなくバッグを持っている。

「それとも、あれか。食中りを起こすって事は、お前、もう腐って」

 このぴっちぴちに新鮮な女子高生に向かって、それ以上失礼な事を言わせてなどいられない。

 わたしは無言で、手に持ったバッグで、容赦なく彼の頭を殴らせていただいた。

作中の「黄色い本」は、執筆当時実際に世間で禁煙本として話題になっていた書籍です。

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