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*12*

 『私さ……雅隆のこと好きなんだよ』

 汗に濡れた髪を撫でてもらいながら、私はうっとりと目を細めた。

 しっとりと汗ばんだ肌がより一層の密着感を覚える。

 子供の恋は幼いようで……でも、覚えたての恋愛行為を受け入れて

 飲み込んで

 溺れて。

 『本当に好きなんだよ』

 言葉を紡ぐ度に、甘いキスをたくさん貰って。

 その甘さに涙した。

 『でもね。遠く離れたらこんな気持ち……冷めちゃうよね……』

 あのときの少年の言葉は、もう覚えていない。

 『もう、どうせ会えないから、連絡先は言わないでおくね』

 あのときの彼の顔……どんな顔をしていたんだろう?

 霞がかって……もう、思い出せないよ。




*12*




 月曜日、出勤した私を見て佐々木さんが首をかしげた。

 「持田さん、元気ないね。どうかしたの? まさか彼氏とケンカでもしたのかい?」

 心配そうに尋ねられて、私は苦笑いした。

 「ちがいますよ。てゆか、そもそも彼氏もいないですし」

 「ああ、そうだったね」

 佐々木さんは小さく苦笑いして「でも、今日は一段と雰囲気違うからさ」

 困ったように目を泳がせた。

 いつもより化粧が濃いといいたいのだろうか。

 違うといえない自分が悲しい。

 「すみません」

 私が謝ると佐々木さんが笑った。

 「いや、持田さんっていつも素顔に近いメイクしかしてないじゃない? 素肌綺麗だからさ……こういうふうにきっちりメイクされるとドキドキするね」

 佐々木さんはそう言うと今日の仕事の分担を始めた。

 言葉は違えどやっぱり化粧が濃い、か。

 けど、仕方ない。

 私は首元を隠すように手を押し当てた。

 昨日、彼につけられた顎の下のキスマーク……。

 とても濃くて簡単には隠せなかった。

 腕の下のもそうだったけど……そっちのは、七分袖のカーディガン着てたらわからない。

 でも、この顎の下だけはどうにもならなくて、コンシーラーとか下地とか念入りにつけて隠し、どうにか目立たない状態まで来たのだ。

 それをつけた当人は今日は佐古チーフのお申し付けでここにはいない。

 しかし、それは表向きのこと。私はもう知ってる。

 本当は佐古チーフがそう言うふうに託けてるだけで、本当は彼の本来の仕事……この会社の社長としてのはずせない業務をしているんだという事。

 どういう理由にしろ彼がこの場にいないことは、ある意味救いだった。

 でも……。

 今日の仕事は本気でぼろぼろだった。

 つまらないミスを連発して何もかもがうまくいかない。

 集中力がないのも、ここまでいくとかなりきつかった。

 しまいには

 「持田さん、お疲れだね」

 佐々木さんが苦笑いして私に割り振った、少し重要案件の図面を自分のほうに引き戻した。

 なんとも情けないと思う。

 「すみません」

 私は謝罪した。

 人に本当に迷惑をかけてる。

 「ま、そんなときもあるよ」

 佐々木さんはそう笑って私の髪をくしゃくしゃとかき混ぜてくれたけれど、どうしてかな。優しくされると余計に自分の未熟さ加減が悔しくてたまらない。

 私はぎゅっと唇をかんで俯いた。

 定時に仕事が終わって、……正しくは追い出されるように会社の門を出たところで、背の高い人影に気付いた。

 私を見て、ようと片手を上げる。

 私服姿の藤堂君だった。

 彼はにこやかに近付いてきた。

 「やぁ、もう仕事終わった?」

 尋ねられて、頷いた。

 「あ、でも……今日、国立君は出張で……明日の夕方までいないよ?」

 私が言うと、彼は笑って頷いた。

 「ああ、それは知ってる。今日はもっちーに話があってきたんだ」

 彼はそう言うと私に時間いい? と尋ねた。

 私が頷くと、彼はタクシーに乗ってこの街ではない、隣町にある喫茶店に入った。

 タクシーの中で、私は彼が現在建築学の大学院に通っている事を聞いた。家業を引き継ぐから必要なんだと言っていた。中学生の頃、彼の部活仲間という認識しかなかったから、そんなに藤堂君について知っていることはないけれど、そうか、皆頑張ってるんだなって、思った。

 店に入ってなぜわざわざここに来たのだろう? もしかしてこのお店は藤堂君のテリトリーなのかな? そう思っていると

 「会社の付近じゃ、もっちーの知ってる人に会ったら困るだろ?」

 彼は笑いながらやってきたウェイトレスにコーヒーを注文した。

 なるほど、気遣いの天才児といわれるだけはある。

 私も紅茶を注文して彼に向き直った。

 「で、私に話って?」

 私が切り出すと、藤堂君は苦笑いをした。

 「うん? 余計な事だとは思うんだけどな。当時の事情もちゃんとわかっているつもりだし、でも、ちょっと……」

 藤堂君は言葉を一瞬にごらせた。眉根を寄せて声を潜めるように 「結局、俺は国立の味方なんだ。友達だから。だからこんな余計なお世話って言うやつをしてしまうんだけど」

 そう、前置きをした。

 まぁそうだろう。

 私が頷くと藤堂君は顎を押さえながら

 「昨日、なんかあった?」

 私に問うた。

 は?

 「なんで?」

 質問に質問で返しちゃいけないというのはわかっている。でも繋がりがわからなかったのであえて私が尋ね返したら

 「あいつ、昨夜めちゃくちゃ落ち込んでたんだ。何も口きかないで席に着いた瞬間、バーボンストレートで呷ってさ。そしてなんも言わずにボトル一本空にした。なんか心当たりある?」

 バーボンをストレート……しかも1本ですか……。

 私は小さく息をついた。

 想像しただけで頭が痛くなる光景だ。

 心当たりはあれしかないだろう。

 「昨日、押し倒されて、キスされた」

 私が顎をとんとんと叩いたら、藤堂君がそこに気づいて、彼も息を吐いた。

 「あいつは自分で自分の首を絞める奴だからな」

 ゆっくりとそう呟いて、やってきたコーヒーと紅茶を受け取った。

 私の前に紅茶を置いてくれる。

 「そういや、もっちーもコーヒー飲めない子だったんだな。国立と一緒で」

 私は苦笑いして、でもお茶をおいてくれたことをお礼言う。

 「互いにお子ちゃま味覚だからね」

 一口紅茶を含むと、熱くて少しほろ苦い甘さが身体に染み渡った。

 「バーボン煽るようなお子様はいないけどな」

 私の言葉に藤堂君が突っ込んだ。それもそうだ。私は小さく笑った。

 ゆっくりとコーヒーを飲みながら

 「俺さ、昔めちゃめちゃ持田のこと恨みそうになった」

 窓の外を見て藤堂君が呟いた。

 私はびっくりして彼に目を向けた。

 私、藤堂君になんかしたっけ?

 心当たりのまったくない私に藤堂君は苦笑いしながら首を横に振る。

 「持田が俺たちに黙って転校した後、国立が一時すごい荒れてさ。もう、手がつけられないくらいすさんだんだ。あの時は正直に持田を恨んだ」

 彼はそう言って、「でも、今考えたら……持田だって苦しんでないはずないのにな」

 私に優しい目を向けてくれた。

 私は太ももの上でぎゅっと手を握った。

 自分が転校した後のこと、私はまったく知らない。

 もしかしたら、従兄弟は知っていたかもしれない。時々何か言いたそうにしているのを知っている。

 けれど、私はあえて聞かなかった。

 彼がどんな生活をしたか、一切考えないようにした。

 仕方ないじゃないか。他にどうすればいいかわからなかった。遠く離れたら続くわけないって、わかりきったことじゃないか。

 しかし、

 「一応俺もさ、理由はどうあれ遠くに離れるなら二人が別れるんはしょうがないってわかってた。それでも、思わずにおれなかったんだ……。せめて、もうちょい上手に別れてくれてたらって」

 藤堂君がテーブルの上で組んだ手を見つめながら呟く。「どうせだったら、あの後も……二人が絶対に駄目になるってそう、はっきりと納得できる形のところまで付き合えばよかったんだ。今更言ってもしょうがないけど」

 彼はそう言い切るとまた静かにコーヒーをすすった。

 私は俯いたまま小さく頷いた。

 その勇気があの時あったら今お互いにぐるぐるした思いを抱かずにすんだかもしれない。ちゃんと目の前に現れた新たな人に誠実にあれたかもしれない。

 私は紅茶で手を温めながら小さく息を吐いた。

 もしかするとずっと胸にあった想いを誰かに聞いて欲しかったのだろうか。……そうかもしれない。

 ティーカップを撫でながら私もポツリポツリと言葉を漏らした。

 「私も……私の中で、雅隆はずっと7年前の中学生のまま住んでたの。忘れたかった。でも忘れられなくてずっと引きずって……。会いたいとも何度も思った。でももし拒絶されたらって、自分が切り捨てといてよく言うって思われるかもしれないから、だからこそ怖くて。大学受験のときもこっちに出てくる勇気はまったくなかった。この春、就職という形でようやく戻って……、でもやっぱり会えるわけないって思ってた。だいたい会うはずないとも思ってた。こんなにも街は人であふれているもの。きっともう会うこともないって思ってた」

 私はティーカップを撫でたまま窓の外を見た。木々の向こうには人がたくさん行きかっている。

 こんなたくさんの人の中で連絡するすべを持たない知人に会う確立っていったいどれほどのものだろう。

 「偶然なの、本当に。私があの会社に出向する事になったことも、……そこで再会したことも。でも、あたりまえだけれど彼は7年前とはまったく違う、大人の姿になってた」

 再会したことは、驚いたけど……でも喜びだった。

 私はぎゅっとティーカップを握った。涙があふれそうになるのを必死でこらえる。

 私が泣くのはやはり反則。ここで泣くのは卑怯だ。

 「7年間て、時間は長いよ……。ものすごく、長いよ」

 私が言うと、藤堂君は息をついた。頑固者だなって言うように大きなため息だった。

 「でも、変わってないものもあるんじゃないのか?」

 とても優しい声だった。包み込むように温もりのこもった声。

 私は藤堂君を見上げた。

 「ここに、変わろうにも変わらなかったものも、あるんじゃないのか?」

 そう、私の胸を指差す。

 私は自分の胸元を見た。

 変わらなかったもの……。

 変わりたくても、変わらなかったもの。

 そうだ。

 私の想いは……確かに変わらなかった……。

 変わらなきゃ、諦めなきゃ。ずっとそう言い聞かせていたけれど、しかし。

 確かに私の想いの中心は変わらなかった。

 「……でも、もう、遅いよ」

 私は呟いた。

 「何が?」

 藤堂君が尋ねる。

 私がうつむくと、藤堂君が

 「『人には縁って言うものがある』」

 唐突に言った。

 「え?」

 私は彼を見た。

 「持田が国立にいったんだろう? 人には縁って言うものがあるって」

 藤堂君が私に確認するように繰り返した。

 そうだ。中学2年のとき私が彼に初めて会ったときにいった言葉だ。

 私が頷くと彼も頷いて言葉を続けた。

 「あいつ、言ってたよ。それで終わるならそこまでの縁だって。でもそうじゃなかったら……」

 「でも、もう遅いの」

 私は藤堂君の言葉をさえぎりかき消した。「もう、7年前のときは取り戻せないの。今更なの」

 私にも……そして、あの人にも……。

 互いに7年の間で環境がすっかり変わった。

 近くにいる人も変わった。

 たまたま偶然が重なって再会したけれど、今はその感傷に浸っているだけ。

 「それは持田の心の持ちようだろ?」

 藤堂君が静かに言った。「当たり前じゃないか。誰も取り戻せなんて言ってない。自分の気持ちに素直になれって俺は言いたいんだよ」

 その言葉はちょっと衝撃で、そして不意に胸をつかれて……涙が出た。

 それまで必死こいて泣くのを我慢していたのに、藤堂君の言葉は私の涙腺を崩壊させてしまった。

 藤堂君がうつむいた私の頭をぽんぽんと叩く。

 「持田も本当につらかったんだな」

 私は頭を横に振った。

 ちがう。私は卑怯に逃げただけ。

 面倒を回避しようと逃げただけだ。

 でも、そんな卑怯者の頭を藤堂君は優しくなでてくれた。

 「一つ朗報。国立、彼女と別れたんだそうだ」

 そう、優しく言いながら私に告げた。

 その表情はどこか嬉しそうだった。

 なんで、友達が彼女と別れたのに笑顔なのですか、貴方は……。

 親友だったら、お前のせいで別れたのにって攻めるところでしょう?

 私は訝しげに顔をあげた。

 「もう、偽者でごまかしてやけくそに生きるのはやめるんだってさ。なぁ、持田は? 持田は今からどうしたい? 自分の心に後ろめたさを残したまま生きていくのか?」

 そう彼は笑って綺麗なハンカチを私に貸してくれた。

 あー、もう、別嬪さんが台無しだって笑いながら、私のほっぺたを伝う涙をぬぐってくれる。

 台無しになったって知らない。

 でも、私は……。

 私は……。

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