降雪によせて
「失礼します」
ノックの後で、少女が一人分厚い扉を開けて入って来た。手には急須と湯気の立つ湯呑みが二つ乗った盆を持っている。
肩を越し腰まで届くかと思われる白い髪。紅玉をはめ込んだような赤い瞳。着ているものは暖かみのある茶色を基調とした長袖のワンピース。肌の白さもあって、陶器の人形のような、という言葉がぴったりとあてはまりそうな少女である。
「先生、お茶が入りましたよ」
「いつもありがとうございます」
言いつつ振り返ったのは、一人の男。少女を白と言うならば、彼は黒と言えるだろう。
男にしては長めの、緩く纏められた髪の色は烏羽色。細い銀縁眼鏡の奥の目も黒い。着ているものも、緑がかった黒い着物。 少し下がる目尻と、笑みをたたえた口元が、男の顔に穏やかな印象を与えている。
「雪が降っていますよ」
男が左手に持つペンで示されたのは、部屋の左側の窓。見れば確かに、暗い空からひらひらと、地に向かって白片が落ちていく。
少女の視線が窓に向けられる。窓の外は一面の銀世界。
しばらく雪景色を眺めていた少女の目が、ふと上に向いた。視線の先、窓枠の上部にあるのは巻き上げられた簾。
「先生、あの簾、どうなさったんです?」
緑茶をすすり、その熱さにちょっと顔をしかめた男が答える。
「ああ、少し詩にならってみたのです」
「詩、ですか?」
指先を暖めるように、湯呑みを両手で持った少女が首を傾げる。
「あの、どんな詩ですか?」
「『香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁(香炉峰下新たに山居を卜し草堂初めて成る偶東壁に題す)』。唐代の詩の一つです」
「ええと、その詩にならったら、こうなるんですか? ……すみません、漢詩は苦手なんです」
しょげた様子の少女に男は、
「そうですね。正確に言えば『遺愛寺鐘欹枕聴(遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き) 香炉峰雪撥簾看(香炉峰の雪は簾を撥げて看る)』の部分にならったのです」
と詩句の一部をそらんじてみせた。
それを聞いて、あ、と言うように、少女が何度も頷く。
「『遺愛寺の鐘は枕をかたむけて聴き、香炉峰の雪は簾をはねあげて眺める』という意味です。聞いたことはあると思いますよ。確か『枕草子』にもこの詩をふまえた場面があったはずですしね。誰の詩かは知っていますか?」
「ええと……白楽天、でしたっけ?」
自信のなさそうな少女の声。男が大きく頷くと、少女の顔が本当に嬉しそうな笑顔になる。
「先生、和歌で雪が詠まれたものには、どんなものがあるんですか?」
その言葉に男が少し考える。
「そうですね……。すぐに思いつくものでしたら、大伴家持の歌でしょうか。『新たしき年の始めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事』。意味が『新しい年のはじめの、新春の今日降る雪のようにますます重なってくれ、よいことよ』ですから、今が正月でないのは残念ですね」
男が残念そうに首を振る。
窓の外で降る雪片はさっきよりも大きくなり、まるで花びらが降っているようにも見える。
「……『冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ』」
少し冷めた茶を飲みながら、雪を見ていた少女が和歌を呟く。男がおや、という色を浮かべて少女を見た。それに気付いた少女が頬を染めてはにかむ。
「『まだ冬のままで空から花が散ってくるのは、雲の向こうは春なのだろうか』。こちらの方がいいですねえ。確か古今和歌集に載っていたものだと思いますが、さて誰の歌でしたか。よく知っていましたね」
「はい、あの、以前にちょっと見かけたことがあったので」
少女の言葉を聞きながら、男は湯呑みを置いて本棚から古いノートを取った。ぱらぱらとめくって何かを探す。それから赤い布張りの本を取り出して開くと、少女に一部分を示して見せる。
「これですね。清原深養父の歌でした」
文章を指で辿って読む少女。それからぱっと顔を上げて男を見る。
「先生、これと、漢詩の本を貸していただけませんか?」
「構いませんよ。漢詩なら……これがいいでしょうね」
「ありがとうございます」
借りた二冊の本と盆を抱えて少女が部屋を出て行く。その足音を聞きながら、男は傍らの本に手を伸ばした。
作中の漢詩は『漢詩大系12 白楽天』から、和歌は旺文社『全訳古語辞典』付録から引用しました。




