猛獣たちを かきわけて
通用門をくぐって外にでると、紫陽花が雨に濡れていた。夜勤明けのだるい体をひきずりながら、私は自転車置き場に急いだ。早く逃げないと、引き続き日勤をさせられてしまう。チェーンを外して力を振り絞ってペダルをこいだ。雨粒が頬に当たる。職場である24時間営業の店舗の看板『LUCKY』が遠ざかっていく。
これで明日の十時までは、あの店舗を見なくてすむ。仕事と切り離される自由な時間は、激しい疲労の代償だ。寝不足からくる頭痛と、立ちっぱなしで引きつった足の筋肉。日によってあちこちが痛む腰痛。これらが二十四時間で回復することはない。シフトをこなすたびに、疲労が蓄積し、体のどこかが壊れていく。
借りている賃貸マンション『御幸ハイツ』に着く頃には、雨は本降りになっていた。
自転車置き場から部屋に向かう私の耳に、玄関ドアをドンドンとたたく音と、
「夏美さん、いるんでしょ、夏美さん。仕事しましょう。」
と、叫ぶ男たちの声が聞こえてきた。
また、あいつらが来ている。私は鍵を握り締めて、一階にある自分の部屋のドアに近づいた。スーツ姿の男三人がドアの前で騒いでいた。
「近所迷惑ですから、静かにしてください。」
私は男たちを睨みつけながら言った。
「夏美はいません。それに、夏美は三週間前に辞表を提出しています。」
「それでは会社が困るんです。契約を取ってきたのは夏美さんなんですから、どうしても、もう一度、取引先に行ってもらわないといけないんですよ。」
赤いネクタイの男が怒鳴る。男二人もうなずく。
「私たちは、毎日こうして朝昼晩と訪ねて来ているのに、おかあさんも夏美さんも誠意を見せてくださらない。しかたがないから、夏美さんのお父さんに会おうとしたら、なんと、行方不明!お父さんはご両親と一緒に、計画倒産して、逃げているんだそうですね!」
そう言って、赤ネクタイは笑いながら私の顔を覗き込んだ。思わず顔をそむけたら、目の前が真っ暗になった。立ちくらみだ。徹夜明けなのに、私は部屋に入ることもできない。だが、この男たちの前で倒れるわけにはいかない。私は乱暴に男たちの間に割り入って、右手をドアに突いて、体を支えた。もう限界だ。
「あなたたちに、娘は渡さない。」
私はドアにもたれて、軽蔑の笑みを浮かべると、さらにこう言った。
「ったく。弱い男ほど、つるんで女を傷つけるのよね。」
しつこい男を撃退する最後の手段は、男のプライドを抉ることだ。だが、一歩間違えたら殺される。私は覚悟を決めた。殺すなら、殺せよ。娘のためなら、死ねるわ。
「帰れ。二度と来るな! 一人じゃ何もできないくせに。」
私は男たちをひとりずつ指差しながら言った。
男たちが凍りつき、動きが止まった。今だ。私は鍵を差込み、ドアを開けた。素早く中に入り、鍵をかけた。震える手でチェーンをかけ終えると、その場に崩れ落ちた。
貧血と低血圧が治まるのを待ちながら、私はドアの外に耳を澄ましていた。
程なく、男たちの遠ざかる足音が聞こえてきた。ふらつきながらも立ち上がって部屋の奥に入ると、リビングの片隅で、娘の夏美が耳を塞いでしゃがみこんで震えていた。
私は娘に近寄ると、こう言った。
「もう、大丈夫。おそらく、二度とあいつらは、ここへは来ないわ。」
「そうかしら。」
娘は真っ青だった。
「ええ。もうじき、あなたも外に出られるようになるわ。」
そう伝えても、娘の表情は強張ったままだった。娘の情緒不安定は、当分直りそうにない。それでも、夏美は笑顔を作って、私にこう言った。
「おかあさん、お風呂、沸いているわよ。」
夏美の笑顔が私の心に突き刺さった。その痛みを私も笑顔で返しながらこう言った。
「ありがとう。さっそく入るわね。」
汗を流し、熱いお湯に浸かると、体中の疲れが溶け始めた。パジャマに着替えると、布団の上に倒れこんだ。
すっと眠りに落ちたいのに、閉じたまぶたに、先ほどの男たちの残影が浮かんできた。
夏美は入社早々に、前担当者の十倍の売り上げを達成した。社長賞も受けた。次の月に最大の取引先の男から、「どうして君とでかい取引をしたのか、わかっているよね。」と、ホテルに誘われた。困った夏美が赤ネクタイに相談すると、「それは君個人の問題だ」と、突っぱねられた。さらに、「この薬をあげよう。ホテルに行く前に飲めば、楽になるよ。」と、言って、クスリを手渡された。私にクスリを見せて、夏美は泣いた。それ以来、会社に行けなくなった。
警察に相談したら、このクスリがもし非合法のものであれば、逮捕されるのはくれた上司ではなく、持っていた夏美だと言う。過酷な労働条件とクスリは、切っても切れない関係にある。夏美が仕事を続けようと思ったら、クスリの助けを借りて、言うことをきくしかなかった。私は夏美がへたり込んでくれて、よかったと思う。
外に出られず、家にこもっている夏美の元へ、赤ネクタイたちが日参した本当の目的は、夏美の復帰ではない。その逆だ。最近は落ち着いてきたが、一時は夏美が自殺するのではないかと、生きた心地がしなかった。仕事から帰って、夏美が生きているのを見ると、ほっとした。
「お願い、夏美、生き抜いて。今は生きているだけでいい。仕事をしないことに負い目を感じないで。むしろ、仕事をしていない自分に誇りを持って。」
私は何度も夏美に語りかけた。仕事中もずっと念じていた。念が宙を飛んで夏美の元に届きますようにと祈っていた。もし、夏美を失えば、私も生きてはいない。
涙がこぼれてきた。スイッチが切れたように、私は眠りに落ちた。
私は暗闇の中にいた。空気が綿のように重く、熱かった。綿の裂け目から、赤黒い溶岩を噴き出している火山が見えた。
火山はやがて人の形となって、火の粉を散らし、ゆらめきながら、腕を大地の窪みに伸ばした。そして、窪みで蠢いている何かを鷲掴みにすると、大きな口を開いて、それを飲み込んだ。そしてまた、窪みに手を伸ばす。
窪みで逃げ惑っているのは、人間だった。炎はもがいている人間を握り締め、今度は頭から食いちぎった。次に炎が掴んだのは、さっきの赤ネクタイだった。赤ネクタイもあっという間に食われていく。
あ、かわいそう。
思わずつぶやいて、ふと 気がつくと、私は炎のすぐそばに居た。やばい。体に熱風が巻きついてきた。
はっと目が覚めた。びっしょりと汗をかいていた。強い雨音が聞こえていた。蒸し暑い。
夜勤明けの眠りは浅い。眠りの中に不安や憤りがいつも漂っている。感情のシャッターを下ろさないと、いつまでも嫌な現実を漂い続けることになる。
私はベランダに出ると、鉢植えのバジルの葉を摘んだ。それをカップに入れて、熱湯を注ぐ。芳香が漂う。バジルティーが疲れた体に染み渡る。
雨音を聞きながら、私は静かに目を閉じた。
まぶたの裏を雨粒が伝う。
水溜りが広がっていく。
やがて水溜りの中から線路が現れる。
灰色の古ぼけた汽車が止まる。
私はその汽車に乗る。
汽車が走り始める。
水のレールの上を規則正しく車輪が軋む。
雨が降りしきる。
赤黒い怒りの炎が消えていく。
レールの上からシャボン玉が湧き上がる。
シャボン玉の中に入っているのは、子供の頃、ぼろぼろになるまで遊んだ人形や、ガラ
ス玉、パフェの飾りの小さな傘。
お気に入りの品に囲まれて、汽車は走り続ける。
私は再び眠りに落ちた。
翌日は早朝から気温があがっていた。今日当たり、梅雨明け宣言が出そうだった。こんな日に限って外回りだ。私は『LUCKY』のロゴの入った軽自動車に乗り込んだ。この車はエアコンがきかない。後ろのドアも半ドアのまま、閉まらない。ミラーはガムテープで止めてある。サイドブレーキも両手で力づくで持ち上げる。これで車検を通っているなんて、信じられない。
外回りの日は、自宅から大量の熱中症対策グッズを持ち込まなければ、死んでしまう。
保冷バッグには、保冷材、凍らせたお茶のペットボトル、保冷タオルが入っている。塩飴や塩昆布、梅干おにぎりも入れてある。
額と首に湿らせた保冷タオルを巻きつけると、私は車のエンジンをかけた。ネットで受けた注文を個人宅に配送するのが今日の仕事だが、時間どおりに配達するためには、ドラえもんの『どこでもドア』が必要だ。しかもカーナビがない。
炎天下の路上に駐車しておくと、車内の温度はすぐに70度を超える。窓を開けて換気して、保冷袋から、おにぎりを取り出した。シフト表に1時間の昼休憩があっても、実際には休憩はとれない。わずかな時間を盗んで、おにぎりをほおばる。梅干がうまい。体が生き返る。
焼けたアスファルトの上、熱せられた鍋の中で、私は走る。微かな利益が綿菓子の糸のように、鍋の淵に張り付く。巨大な割り箸がそれを掬い取っていく。鍋の中は空っぽになる。半分壊れた鍋の中を、時間に追いかけられながら、私は走る。糸が少なくなると、箸が私をつつく。私はさらに走る。
家に帰り着くと、もう、体力はほとんど残っていなかった。それでも、保冷材を冷凍庫に放り込み、風呂に入って、汗だくになったユニフォームを洗った。
夕飯は夏美が用意してくれていた。毎日、クックパッドを見ながら、あり合わせの材料でおいしいご飯を作ってくれる。
「ああ、おいしかった。」
食事が終わると、もう、まぶたが重かった。後片付けを夏美に任せて、私は布団の上に寝転がった。
再び、私は綿のように重たい空気の中にいた。綿の裂け目から、夫の後ろ姿が見える。
私は夫の後をつけていた。夫は布袋を担いで、丘の上に向かっていた。綿の裂け目をくぐるたびに、空間が歪んでいく。最後の裂け目を抜けると、そこは丘の上だった。
丘の上には海賊船が泊まっていた。その海賊船は、丘の上を大海原だと思い込んでいた。自分はいつか必ず世界を征服できると信じていた。私はそのための道具だった。
海賊船の前には男の子が立っていた。夫はその子の前で立ち止った。
男の子には両腕がなかった。代わりに肩から鉄の爪がついていた。その子がゆっくり右肩を回すと、夫は右手を高く上げて、大きな円を描いた。男の子が爪を下げると、夫は布袋をおろして、中からボールを取り出した。
そのボールは、私の言葉でできていた。私が語りかけたすべての言葉を、夫はボールに丸め、袋に詰めてここに運んできていたのだ。夫は袋から次々とボールを取り出しては、嗤いながら地面に叩きつける。ボールは粉々に砕け散り、欠片となって辺りに散らばった。
「まだまだ足りないね。」
甲板から男の子の母親の声が聞こえてきた。彼女は、何かを花束のように抱えていた。よく見ると、それは男の子の両腕だった。
「ほら、そこにいる。」
母親は私を指差した。男の子と夫が振り返って、私をにらみつけた。
「空っぽにしろ。何もかも取り上げてしまえ。」
母親が叫ぶ。言われた男の子は、夫に爪を突き立てる。夫は振り向きざまに私の腕をつかむと、私を男の子の前に引きずり出した。私の心臓めがけて、男の子が爪を振りかざす。
私は男の子の顔を思い切り蹴飛ばした。男の子がうずくまる。夫の腕に力がこもる。私は、今度は夫の股間を力いっぱい蹴り上げた。夫は倒れた。
私は走って丘を下る。黒い綿が圧力を増して、私を包み込み、押し戻そうとする。裂け目を塞いで、出口をなくす。私は両腕に力をこめて、綿をこじ開ける。わずかな裂け目に手を突っ込んで、綿を掻き分ける。体当たりをして、綿を突き抜ける。
雑草の波の中に、灰色の汽車が止まる。
私はデッキに泳ぎ着いて、這い登る。
汽車が走り出す。
私は床に倒れこむ。
体の上を、外の景色が光と影になって、流れていく。
荒い息が鎮まっていく。
体に絡まっていた透明な鎖が、ちぎれて飛んでいく。
船底の囚人たちが、足枷を切って立ち上がる。
マリオネットが糸を引きちぎる。
木彫りの鳩が時計のドアを開ける。
トランペットが鳴り響き、色とりどりの風船が舞い上がる。
彼らは歩いて丘を下る。
次の日は夜勤の入りだった。午前中に買い物を済ませ、コンビニで娘の住民税と年金の支払いを済ませた。私の手取りは十七万円。そこから家賃と光熱費、生活費を引くと、ほとんど残らない。消費税が上がり、すべてが値上がりした。きっともうすぐ空気にも税金がかかってくるのだろう。税金が払えなくなったら、もう、私の灰色の汽車は走らなくなる。その時には、公園の夾竹桃の枝を一本切り取って、コップの水に挿そうと思う。
コンクリートの白い街が夕日に染まる頃、私は職場に向かって自転車を走らせた。あちこちに利益を生まなくなった古いビルが放置されている。まるで、白骨化した恐竜の背骨のようだ。だが、それらが自然に土に還ることはない。
白い骨の街を、青い光が飛び交う。空間であちこちに像を結んでは、これが真実だと騒ぐ。その横を別の矢がすり抜けていく。矢は罠をしかけ、嘘をつき、言うことを聞けと恫喝し、信じろと迫る。かきわけても、拒否しても、耳を塞いでも、指先をすり抜けて脳に届く。矢は脳を傷つけて、私の口から飛び出そうとする。
私はその矢を吐き出す。排気ガスのように、ため息のように。
私は自分のことばを自分で探す。私は私の汽車が行き場を失うまで、今日も、猛獣たちをかきわける。
完