4.さようなら
最優先すべきは、自分の容姿だった。
銀髪で灰色の目を持ち緑のマントを羽織った少年。それだけで、国の誰もがクラウスを思い浮かべることだろう。クラウスは、もっと目立たない格好をすればよかった、と今さらながらに後悔した。
自分を目撃した人が出てしまえば、素も子もない。そして痛い思いをした意味もない、とクラウスは辺りに誰もいないことを確認した。
人差し指を、自分の髪に当てる。
クラウスが小さく呪文を唱えると、髪はその部分から徐々に変化を始めた。
日光に照らされ光る髪は銀色から漆黒へ変わる。まるで丁寧に絵の具で塗りつぶしたような変化だった。
瞳の色も、灰色から落ち着いた濃い茶色に染まってゆく。
透き通るように白かった肌は健康的な小麦色に。あどけない童顔は大人びた細い顔に。
王族の剣からは輝きが失せ、光沢のない古びたただの剣に、マントは金色で刺繍してあった王家の紋が消え、ありきたりな茶色のマントに成り下がった。
実体どころか本来の力までもを覆い隠し、別のものに見せる変化魔術。
それ自体は初心者でも簡単に習得できるものだが、発動後のコントロールが至難な魔術。
制御が甘いと、優秀な剣士や魔術師には見抜かれてしまう。
つまり、本来の実力を制限するほど、見抜かれる確率が低くなる。
クラウスは、自身の並々ならぬ魔力を最大限封じることにした。
無意識の魔力の放出はある程度抑えることができる。これまでもそうやって周囲の注意を逸らしてきた。
自分にフレアをも超える魔術の才能があることを、クラウスは理解していた。しかしそんなことを周囲に知られてしまえば無駄に騒ぎ立てられ、面倒なことになるだろうということも。戦国であるルッセルでは祭り上げられ、早々に戦場へ向かわされるだろう、とクラウスにとって悩みともいえることだった。
剣術の才能もあったが、魔術には劣る。そのため、クラウスは力の制御は弱くした。それは護身のためというより、安心感を得るための行為。
自身が弱くなってしまうことに、クラウスはやはり不安になるのだった。
「うーん…………」
顔をしかめ、クラウスは首を傾げる。
「こんなに制限しちゃって大丈夫なのかな…………」
答える者はいない。いつもなら疑問はフレアにぶつけるクラウスだが、そうはいかなかった。
自分の隣に教育係がいないことを思い出し、少し寂しく思う。
(………まあ、いいか)
自分ではまともな結論を出せそうにない、と判断し、クラウスは無理矢理自分を納得させた。
どうせ術を解けば全て元に戻るのだから大丈夫だ、と言い聞かせる。そして、それは事実だった。変化を解けば自分は負けないだろう、と確固たる自信を持つ。
深呼吸を一つして、クラウスはくるりと城と街に背を向けた。
「これで、どう見ても一国の王子には見えないよね?」
確認するように呟き、目の前に広がる森へと、一歩踏み出した。
「私も捜索に当たります」
国一の魔術師でありクラウス王子の教育係でもあるフレア・スタージュは、普段にも増して真剣な顔で告げた。
『アサシン』のビルの中で生命存在痕跡が残されていたのは、地下11階の特別制御室だけだ、と連絡を受けた直後のことだった。それを聞くなり、フレアは緊張した面持ちで現地へ向かった。
積み上がった大量の瓦礫。捜索を滞らせている要因。
不安定で立つことが難しいため、一同は魔術で作った透明な床の上に立っていた。端から見れば、空中に浮いているように見える。
「この魔封石の封じを解除します」
フレアがそう宣言した途端、周囲の魔術師達がざわめいた。そんなことができるのか、と呟く声が、辺りに広がった。
フレアはそれを耳に入れず、朗々と呪文を唱え始める。話し声はぴたりと止んだ。
暗記するだけでも困難な複雑で長い呪文が、辺りの空気を震わせる。
十数分ほど呪文を唱え続け、フレアはようやくその口を閉じた。使うのは初めてだった上に部下の前なので失敗するわけにもいかず、省略していない大元の呪文を唱えたので時間がかかったのである。
次いで、フレアは効力を失った瓦礫を取り除く呪文を唱えた。その顔に、疲労は見られない。
しかし、瓦礫の下から現れたのは一際大きな血溜まりと、模様のように点々とある血の雫のみ。
「王子………クラウス王子…………?」
フレアは信じられないといった風に呟いた。
血の池の傍に膝をつき、脱力したように項垂れる。
固まりかけている赤黒い液の中には、小さな白い欠片が混じっていた。それは骨だった。
「爆発に……巻き込まれたのでしょうか」
隣にやってきた魔術師が、呟いた。フレアは答えない。
魔術による爆発が起きると、その場は灼熱地獄となる。巻き込まれれば跡形も残らないことも多い。
フレアはそれを、自分の中で否定する。否定しなければ、息をしていられなかった。
王子は死んでなんかいない、と心が悲鳴を上げる。あんなに元気で無邪気だったのに。悪戯好きで、いつも私を困らせていたのに。ああ、きっとそこの瓦礫の陰にでも隠れていて、皆を驚かすつもりなんだ―――――――。
しかし、現状は容赦なくフレアの希望を打ち砕いた。
その部屋にあるのは、血と瓦礫と埃の臭いだけだった。
崩れる地下の密室から力ずくで出られるほど王子はない。魔封じが解かれた形跡もない。
そして、大量の出血の跡。
それは小さな子供の生命を奪うには十分な量だった。再生魔術がなければ数時間持てば良い方だ、とフレアの知識が訴える。再生魔術は高度な術で、王子が習うのは5年も先だった。
どう考えても、クラウスが生きている可能性はないに等しい。
そのことを理解してしまえることが、フレアには余計に辛かった。
「スタージュ様、あれは…………」
一人が、フレアから離れた床を指差した。僅かに反応し、そちらへ目を向ける。
点々と続く血の先に、文字が描かれていた。
黒ずんだ赤で書かれた文章。
【皆今までありがとう。さようなら。また会う日まで……… クラウス・ルッセル】
それは間違えるはずもない、見慣れた王子の筆跡。
フレアの目から、透明な雫が零れ落ちた。
「王子…………」
誰も喋らない。辺りは無音だった。
「貴方が先に旅立ってどうするのですか………一人で出かけてはいけないと、いつも言っていたでしょう…………?」
息子のようだった。
王子が生まれてまもなく、18年間の教育と世話を言い渡された遠い過去の記憶。
家族のいないフレアにとって、クラウスは息子だった。唯一自分と一緒にいてくれる、大切な存在だったのだ。
それが、こんなにもあっさりと消えてなくなってしまう。
11年間の王子の姿が、脳裏に蘇っては消えた。
「王子…………」
誰も、声をかけなかった。
何の前触れもなく、くしゃみが出た。
同時に誰かに呼ばれたような気がして、クラウスは振り返る。
「あれ……誰か呼んだ?」
クラウスは呼びかけた。しかし、反応はない。
ただ、木々が風にさわさわと揺れているだけだった。