1.崩れゆく日常
それは綺麗な部屋だった。
天井のシャンデリアは明るく部屋を朱色に照らし、部屋全体に豪奢な雰囲気を漂わせてい
る。床は深紅の絨毯で覆われ、その上の大きく立派な家具には埃一つ乗っていない。
とても子供部屋とは思えないほど広いその部屋には、しかし肝心なものが欠けていた。
部屋の主人が、いないのである。
不意に、とんとんと扉を叩く音がした。
失礼します、と部屋に入ったのはまだ若い女性。
女は部屋を見渡し、溜息を吐く。
「また脱走ですか…………」
部屋主不在の小奇麗な部屋を呆然と眺め、ルッセル国の王子の教育係フレア・スタージュ
は呟いた。
「こんにちはおじさん!」
元気な少年の声が響いたのは、街外れの菓子屋。
「クラウス王子様!?」
悲鳴に近い声を上げたのは店主。慌てた様子で、クラウスと呼ばれた少年に駆け寄った。
「何か御用でしょうか?もしや先日お出しした菓子に何か悪いものでも――――」
「――――入ってなかったから大丈夫だよ。美味しかったし。それにもしお腹壊しても、勝手に食べた僕が悪いんだから」
クラウスは手を振って否定する。そして、店に並ぶ菓子をちらりと見やった。
「良かったら、そこのケーキもらえるかな?」
「しかしこんなものを食べてもし――――」
「――――大丈夫だって。そういうのキユウって言うんだっけ?とにかく僕が責任持つからいいよ」
「はい…………」
心配げな表情で店の奥に向かう店主は、やがて真っ白なケーキを乗せた皿を手に戻ってきた。
クラウスはそれを受け取り、椅子に腰掛ける。
と、次の瞬間声を漏らした。
「あ…………」
見上げた視線の先に、女性が立っていた。
クラウスは突然目の前に現れた教育係に、恐る恐る尋ねる。
「フレアさん………どうしてここが?」
「部屋に痕跡が残っていました。……王子!こんな所にいて、『アサシン』に襲われでもしたらどうする御つもりですか!?転移魔術を習得したからといって無闇に使うのはおやめなさいと何度も申し上げたはずです!あれは護身のためにお教えしたのですよ!」
思わず耳を塞いだクラウスを、フレアは厳しい顔で見つめた。
王子をここまで叱りつけるのには訳があった。
殺人組織『アサシン』が動き出したのである。
比較的大規模なその組織は、王族を狙うことが多い。
手当たり次第に各国の王族の血を断ち切ってゆくので、世界中から危惧されている。
二月前、近隣の国の王子が四肢を切断され殺された。
一月前、隣国の王女が心臓を一突きにして殺され時計台に吊るされた。
しかしそれらの殺人事件で目撃者は皆無。さらに一切の証拠は隠滅されている。
事件の前に届く一通の手紙だけが、それが『アサシン』の仕業だと告げていた。
今月になり『アサシン』がルッセル国に入ったと噂されるようになり、王城の者達は警戒を強めた。
標的であるクラウスを守るため、彼の部屋には何人もの騎士と魔術師が並び、数時間毎に入室し王子の安全を確かめている。
しかしクラウスはそんな危機や警備に全く興味を示さず、それまでのように部屋を脱しては城下町を徘徊していた。
「さあ、帰りましょう。皆が心配しています」
フレアが小声で呪文を唱え、二人の姿は掻き消えた。
机の上には、手つかずのままのケーキとその代金だけが残されていた。
そんな毎日が続いていた。
クラウスが気づかれぬよう脱走し、それをフレアが連れ戻す。
その後談話室で話し合いもとい説教が行われる。
クラウスは、それが崩れることなどないと信じていた。
それ故、隙を見て部屋を抜け出すことを止めなかった。
静かな部屋でフレアの話を聞きながら、クラウスは密かに微笑む。
ああ、今日もまた何事もなかった――――――と。
そしてその時間だけが、唯一他の護衛がいない時間だった。
談話室の窓が、唐突に割れた。
何の前触れもなかっただけに、二人は驚いてそちらを見つめる。
硝子の破片が、窓の近くに座っていたクラウスに飛ぶ。彼に当たるより早く、破片はフレアの呪文で消え去った。
立ち上がったクラウスを自分の背中に隠しながら、フレアは窓を見つめた。
風や多少の衝撃では割れないよう魔術がかけてあるはずだった。それが破られたということは何者かの魔術しかありえない。フレアは緊張しながら呪文を唱えた。
二人の周りに、見えない結界が現れる。
次の瞬間、部屋に何かが飛び込んできた。
灰色の装束を着た男。
「『アサシン』…………」
クラウスは無感情に呟いた。
灰装束は、『アサシン』が好んで着る物である。
「何の用ですか?」
フレアは鋭い視線を男に向けた。
敵は鎌らしきものを両手に持ったまま、クラウスを見つめている。
クラウスも、油断のない目つきで男を睨んでいた。
しかし男は二人を襲う様子もなく、懐から白い封筒を取り出した。それを床に置き、呪文を呟いて姿を消す。
「手紙…………?」
何の気配もない、と判断したクラウスが結界を出て封筒を拾い上げた。
そっと開き、中の紙を取り出す。
【明日の0時に、クラウス王子を頂く。】
殴り書きされたような字のその文章は、明らかにクラウスの誘拐を予告していた。
「王子…………」
予想していたもののあまりにも唐突な宣言に、フレアは身震いした。
しかし覚悟を決めて、クラウスの灰色の瞳をしっかりと見つめる。
「必ず、お守りいたします」
震えているものの、はっきりとした声だった。
クラウスは悲しげに、割れた窓を見やる。
崩れてしまった日常に哀愁を覚えながら、教育係に向かって頷いた。
「うん……………」