赤い雪
ゆらゆらと揺られ赤い雪は舞、流れる。
その景色は、今日という日の為に用意されていたもの……そう今日という最高の日の為に。
その日は穏やかな日だった、空は晴れ渡り飛ぶ鳥の声もどこかのんきな感じに聞こえる、そんな五月の一日。
私は彼女に誘われるまま海に来た、それも海に着いたのはもう日も傾き辺りが黄昏だした頃だった。
「なぁ、こんな時間に海に来ていったい何をするんだ?」
そんな私の質問にも笑顔を返すだけで、彼女は黙々と食事の準備を進める。
私と彼女は海で知り合った、昔通っていたダイビングスクールで知り合ったのだ。
当時、私と彼女はまだダイビングを始めたばかりで、海に潜ることが本当に楽しいばかりだった。
最初は何人かでダイビングを楽しんでいたのだが、そのうち彼女と二人でダイビングに行く事が多くなった。
そして今ではダイビングの関係だけではなく、最高のバディの関係へとなっていた。
知り合って以来私と彼女は、ダイビングをするためにあちこちの海に行くようになっていた。
着々と食事の準備を進める彼女、辺りを見るともう影は長く伸びそろそろ太陽は海の向こうにその姿を隠そうとしている。
しかし、辺りの人は減る事もなく、逆に人の数はだんだんと増えていくような気配さえあった。
「どうして今日はこんなにナイトダイビングの人が多いんだろうな?なんかイベントでもあるのか?」
私は彼女にそう問いかける。
「そう、今日はこれからとっておきの、一年に一回だけのイベントがね」
ふーん。私はそう返事をしながら夕日を眺めていた。
夕日も海の中に消えてしまい、辺りは暗闇に包まれだした、海岸線を走る道路をたまに走る車の光が砂浜を照らす。
辺りに民家のないこの砂浜は日が暮れると殆ど暗闇になってしまう。
暗闇が支配する砂浜から夜空を見上げると、そこには今までに見た事も無いほどの星空が輝きだす。
その星ひとつ一つが宝石のような光を散りばめ、そのすべては静かに光を投げかけている。
どうやら彼女の方は準備ができたようで、私の方に向かって声を掛ける。
私はその声のする方に返事をして歩き出す。
彼女のいる所に行くと夕食の用意が出来ており、彼女に促され私はキャンプ用の折りたたみ椅子に腰かける。
「なんか凄い贅沢なご飯じゃん!なんかの記念日だっけ?」
私の問いかけに彼女はまた微笑みを返すだけ。
どうも何かを秘密にしているようだが……
しかし、悪い事でもなさそうなので私は彼女に微笑みを返し、目の前にある食事に手を付けた。
「ご飯食べたら潜る?」
私の問いかけに少し考えながら答えを返す彼女。
「うーん……まだ少し早いかな。もう少ししたら準備して潜ろ」
「わかった、じゃあ潜る準備しとく」
何が早いのかは解らないが、私は彼女の言う通りにしてダイビングの機材を準備する。
その間彼女は食事の後片付けをしており、それが終わるころとほぼ同時にダイビング用の機材の準備も整う。
準備中に気になった事があったので彼女に問いかける。
「なぁ、もうこの時期だとドライスーツは暑くないか?」
大体今の時期だとウエットスーツで潜るようになってくる、水温が上がってくるからだ。
「ちょっとね……」
彼女は少し言葉を濁らせ私に返事をする。
疑問に思いながらもその後の彼女の言葉に私の思考は遮られた。
「少しこの辺りを散歩しない?」
「わかった。じゃあライト持ってくる」
そう言って私は車のトランクからダイビング用の懐中電灯を取り出し電気をつける。
辺りには同じようにダイビングの準備をして待つ人ばかりで賑わっている。
「本当に今日はなんでこんなに人が多いんだ?」
私の質問に彼女はまた微笑み返すだけで答えを言わずに歩みを進める。
暫く歩いて彼女は時間を確認して私に話しかけてくる。
「そろそろ戻って準備しよ、もうそろそろ良い頃だと思うから」
その言葉に促され、私と彼女は車の方に戻って行く。
準備しておいた物をお互いに確認しながら身に着けていく。
準備を進めていく中で彼女はいつもよりも多くウェイトを付けている事に気付いた。
「あれ?いつも二つしかウェイトつけないのに……もしかして……太った?」
その言葉に彼女は過剰に反応し私にシュノーケルを投げつける。
「失礼ね!太ってなんかない!」
彼女の本気で怒る顔を見て私は慌てて彼女に謝る。
「ごめんごめん、冗談だって冗談!」
彼女の機嫌を直し改めて準備をする。
準備が整い砂浜を二人で歩き、海に向かって背を向けてフィンを履く。
そしてシュノーケルを口にくわえ、沖に向かって泳いで行く。
波は静かで、私は静かな波の揺らめきを感じながら沖に向かっていく。
ある程度の深さの所まで泳ぎ私と彼女はシュノーケルをレギュレーターに変えて浮力調節器の空気を抜き海の底に向かって沈み込んでいく。
ライトを海底に向けるとそこには一面の珊瑚が広がる。
ここには一度も来た事が無かった私は、その光景に眼を奪われる。
沈み込んでいく私と彼女を、珊瑚を住処にしている小さな魚達が迎え入れるかのように包み込む。
彼女は私に合図をして珊瑚の近くまで水中を移動する。
静寂に包まれた海の中で私と彼女の空気を吐く音だけが響く。
そしてどうやらその時が来たようだ。
珊瑚達は静かに、しかし力強く赤い粒を体の中から出していく。
総ての珊瑚がこの時を待っていたかのように一斉に、しかし静かに赤い粒を海中に向かって放って行く。
それはまるで海の中に舞う雪のように見えた。
瞬く間に辺りは赤い雪に包まれ、その景色に呼吸をすることも忘れてしまうほど私と彼女はその景色を眺め続けていた。
どれくらいその景色を眺めていたのだろう、レギュレーターに取り付けられたダイビングコンピューターは残圧が少なくなっている事を告げる。
確認するとボンベの残圧は浮上するのにぎりぎり位の残圧くらいしかなく、私は彼女に手で合図を送り、ゆっくり、その場の景色が見れなくなることを惜しむようにゆっくりと海面に向かって浮上していく。
浮上していく途中、空には水面に揺らめく明るく照らす光が見える。
私はその光を求めるかのように手を伸ばしてゆっくり、ゆっくりと浮上していく。
海面まで二人は上昇して、レギュレーターをシュノーケルに変え砂浜に向かって泳ぎだす。
砂浜まで戻り私は一呼吸ついて彼女に話しかける。
「今日が珊瑚の産卵の日だって知ってた?」
彼女は微笑みながら私に返事をする。
「うん、知ってた。でももしかすると今日は見れない可能性もあるから最後まで秘密にしてた」
彼女はそう私に話しかける。
「でも、どうしてわざわざ秘密にしてたの?そんな事なら最初から言ってくれればよかったのに……」
私は少し拗ねるように彼女に話しかける。
「実は、珊瑚の産卵を見た後にあなたに話したいことがあったから……」
そう言って彼女は自分の手をお腹に当てて話を区切る。
私は少しの間何の事か解らずに考え込む、しばらく考えてすべての意味を理解した。
だからウェットスーツではなくドライスーツで、いつもよりウェイトが一つ多かったのだと。
私は喜びの声を上げた。
それから半年後、私と彼女はもう一人の家族を迎え入れた。