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第10話 プリンセス様、もっとレッスンをお受けになる


「先生、もっと難しい設問はございませんの? それとも、このような子供だましの授業を続けることに何か重要な意味でもあるのでしょうか」


「子供だまし……」


 悪気がないだけに鋭さを極めたミースの言葉が、小革先生のナイーブな胸に深々とつきささる。


「僕の授業が……子供だまし……」


「はい」


 あっさりうなずくミース。そのうなずきが、小革先生にとっては脳天に振り下ろされた白いカナヅチだった。


 頭を殴られたように、先生は自失状態になる。そしてふらつきながら黒板にもたれかかると、白目のままうわごとのようにつぶやいた。


「ぼ、僕には……僕にはやっぱり、あの子を教えることなんて無理だ……。僕ですら、解答を見ながらじゃないと説明できない答えを、例題を一瞬見ただけですらすら答えてしまうあの子に、僕がなにを教えられるっていうんだ……。僕は教師失格だ。生徒の知的好奇心を満足させてあげることもろくにできないなんて――僕は一体、これからどうすればいいんだ。教師として何も教えてあげられることがないなんて、そんな教師、いてもいなくてもどっちでもいいんじゃないか……」


 そう云いながら、その場でひざを折り、頭を抱えてうずくまる先生。かなり落ち込んでいるというか、ヒステリックな状態になっている。うちのめされて、とても授業を続けられる状態じゃない。


 毎度のことながら、戸惑う生徒ら。見かねた我らが学級委員長・藤巻さんが席を立ち、先生のもとに歩み寄る。


「先生、大丈夫ですよ。だれも先生が教師失格だなんて思っていませんから」


 しゃがみこんで話しかける彼女。だが先生は耳をふさぎながら首を振る。


「い……いいや、そんなことを言って、みんな僕のことをさげすんだ目で見ているに違いないんだ。『たった一人の生徒もろくに教えられないの? 教師としての適性が不足してるんじゃない? ってか勝手にショック受けて授業放り出すなんでありえないし』とみんな思っているはずだ。僕には分かる。こうしている間にもクラスのみんなは、僕の方をあわれみを込めた目で見つめながらほくそえんでいる。そうだろ?」


「そんなことありませんよ。みんな先生を心配しているんです」藤巻さんが困った表情で伝える。だがああなってしまった小革先生はもうだれにも耳を貸さない。


「見え透いたなぐさめはいらないよ藤巻さん! 僕にできることは、ただこうして終業のベルが鳴るのをひたすら待つことだけなんだ。僕にはどうせこのクラスで授業をする資格なんか無いんだ……!」


「落ち込みすぎですよ、先生。さ、授業を続けてください」


「…………」


 黙り込む小革先生。こうなるともう手の施しようがない。ってかどれだけ落ち込むんだ先生……。


 俺が隣を見ると、ミースが直立したままの姿勢でじっと先生の方に目をやっていた。どうやら「先生はなぜ子供だましの授業を続けるのか」という問いに対する先生からの返事をひたすら待っているらしい。そんな彼女に俺は云ってやった。


「ミース。お前からもなぐさめてあげたほうがいいんじゃないか。このままじゃ授業どころじゃねえし……」


「――たしかにそうですわね。ではわたくし、小革先生に一声かけにいってまいります」


 自習状態になりつつあるクラスの雰囲気。その中を、ミースはおもむろに先生のところへ歩いていった。


 ミースの接近に、藤巻さんが気づく。困った顔をしていた彼女が、さらに眉根を寄せる。


「衿倉さん――」


「藤巻さん、ここはわたくしにお任せ下さい。先生に立ち直っていただくには、わたくしから言葉をおかけした方がいいと思うのです」


「よけいにこじれなければいいけど……」と藤巻さんは苦い顔をする。ミースは笑顔でそれに応じた。


 両ひざに顔をうずめたままの小革先生。ミースはその正面に立ち、先生と同じようにしゃがみこんで呼びかけた。


「小革先生、元気をお出しになって」


「え、衿倉さん……」


 小革先生が顔を上げる。まさかミースに声をかけられるとは思っていなかったのだろう。すぐ目の前に彼女の白く端正な顔があることに先生は驚いて、少し目を見開いた。


「先生。わたくし、先生のことをとても尊敬しておりますわ。数式や証明問題など、ていねいに教えて下さいますし、いつもわたくしのためにいろんな問題を用意して下さいますから、感謝してもしきれない思いで毎日のレッスンを受けているのです。いままでその思いをお伝えできずに、わたくし、深く反省しております。申し訳ありませんでした。そしてありがとうございます、小革先生」


「衿倉さん……」


 小革先生の表情が変わる。よし、いいぞミース。ミースが先生に感謝の言葉を伝えたことで、先生の心が少しだけ元気を取り戻した。


「君には何も教えてあげられていないのに、そんなにまで僕のことを……」


「はい」ミースはいつものように、アメジスト色の瞳をまっすぐ先生に向け、にっこりをほほえんだ。


「ですから、そんなに落ち込まないで下さい。わたくしの演算能力が先生のそれを大幅に上回っているのはもはや明らかですが、先生がそれを病む必要はありません。生まれ持った能力が全く違いますもの。先生にわたくしが解けないような問題を出すことは不可能ですわ。これまでの設問の傾向をみていればわかります。天地がひっくり返ろうが、先生がわたくしを困らせることは永遠にできませんわ。といってこれ以上先生の手をわずらわせるわけにはいきません。ですから先生、数学の授業はわたくしがお引き受けしますから、先生はどうぞ職員室でゆっくりお休みになってください。最も数学のできる人が数学を教えるのが理にかなっていますもの。よろしければ、他のクラスの授業もわたくしがさせて頂きますが、いかがでしょう。小革先生はわたくしの授業の結果報告をまとめるだけ。悪い話ではないと思うのですが」






 ――ミース。全くなぐさめになってない。






 生気を取り戻しかけた小革先生の目がまた白くなる。そして何を云われたのかわからないといったような色の無い表情の後、顔が徐々に青ざめ、力なく再び両ひざに頭をうずめる。


 と思ったら、なぜか先生はするすると立ち上がった。そして、何かを決意したように口元を引きしめると――


 全力で教室のドアにダッシュしていった。


「先生!?」藤巻さんがあわてて呼び止める。だが先生は扉を開けると、ふるえた口調で、でもどこかすがすがしい調子で云った。


「藤巻さん。僕はもうこのクラスには必要とされていないことがはっきりわかったよ。ありがとう、衿倉さん……。僕は職員室でだれとも会わずにずっと過ごしていた方がいいんだ。中途半端な数学を生徒に教えるより、衿倉さんの徹底した数学の方が生徒にとってもためになるから。きっとそうなんだ。そのことに気づかせてくれて、ありがとう……」


「いえ、どういたしまして」


 ミースが無邪気に答える。先生はそれを聞いたとたん、一も二も無く廊下へ駆け出した。


「うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!」


「先生ーー!!」


 藤巻さんが廊下に出る。だが小革先生は涙を流しながら走り去った後だった。


 角を曲がり見えなくなる先生。一瞬の静寂が、教室内に訪れる。


 藤巻さんが振り返ると、そこにはあいかわらず笑顔をたたえたミースの顔があった。


「小革先生、よほどうれしかったようですわね。あんなにうれし涙を流しながら、走って教室にお戻りになるなんて」


 そのセリフに、藤巻さんが右手で顔面を覆いながら「ありえない」といった感じで首を振った。


「……衿倉さん、自分で何を言ったのか分かってる……?」


「はい。どういたしまして、と言いました。本当は『これまでお疲れさまでした』とも言いたかったのですが、先生がすぐに走り去ってしまわれたので……」


「言わなくてよかったわ……」藤巻さんは頭痛でもするかのように眉間に指をあてる。


「あら、藤巻さん。どこか具合が悪いのですか? ひょっとして頭痛でしょうか」


「ええ。あなたのせいでね」


 藤巻さんは力なく答えた。そして俺の方を向く。


「壬堂君。あなた、ぼーっとみてないでなんとかしてよ」


「えっ、俺?」


「ええそうよ。どうせまた他人事みたいに頭の中で小革先生と衿倉さんのやりとりにツッコミを入れていたんでしょう」


 う、図星。


「そもそも先生に声をかけるよう衿倉さんに言ったのはあなたでしょう。責任の一部はあなたにもあるわ」


 聞こえてたのか。藤巻さん、地獄耳だな……。


「衿倉さんに何を言ってもかまわないけど、下手なことを言って状況をこじれさせるのだけはやめてほしいわ。そもそも壬堂君には当事者意識というものが――」


 そうして俺とミースに対する藤巻先生の長い説教が始まるのだった。












 そんなミースにも、苦手な科目はある。


「7ページの文章で、蔵野が恵理子のサンダルを拾った、とありますが、このときの主人公の心情はどのようなものだったでしょう。衿倉さん、分かりますか?」


「はい。片方のサンダル無しに歩くことはヒザ及び腰の関節に負担が大きいため、蔵野の行為は恵理子の健康にとってとても良いことだった、でも理想的にはクッション性のあるシューズを履く方が良いだろうと主人公は思ったと思います」


「衿倉さん……確かに理屈ではそうも考えられますけど……」


「あら、違いますの?」


 こんな答えを聞くと、なぜかほっとする。


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