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 缶ビールの最後の一口を飲むと、憲治はいつものように彼女の名を呼んだ。

「――百合、ビール」

 言ってから、ここは自分の家で彼女はいないことを思い出した。

「くそっ」

 握り締めた缶をごみ箱に投げた。苛立ち紛れに投げた缶はごみ箱を逸れ、床に落ちた。憲治はそれに更に苛立つ。

 ようやくの思いで部屋に連れ込めそうだった女に逃げられ、おまけに百合はヒステリーを起こすし、と憲治にとってはさんざんな一日だった。

 でも、と思う。あの女ともそろそろ潮時だと思っていたからちょうどよかった。

 携帯電話の着信音がなり、憲治はめんどくさげに電話にでた。電話の相手は女だった。私、と言われても憲治には思い当たるふしがありすぎて名前を言えない。女が、彼女は? と訊いたので、昼間逃がした女だと思った。憲治の態度が一転する。

「おう、昼間はごめんな。よかったよ、電話してくれて。え、怒ってない?」

 よかったぁ、と憲治は煙草をくわえた。電話の向こうで女は、今暇なのと告げた。

「そうなの? じゃあ今からうち来いよ」

 ――彼女は?

「昼間の女のこと? ああ、あれは家政婦。ほんとだって。料理を作るしか能のない女」

 ――でもけっこう長いつきあいっぽかったよね。

「つきあいは長いけどな。別に彼女じゃねえし、ま、むこうは俺の女だって思っていたみたいだけど。ただの財布で家政婦だよ」

 ――ひどい男だね。

「ばぁか、こう見えても好きな女にはつくすんだぜ」

 にやにやと憲治は笑う。火をつけようとしたまま煙草はそのままだ。

 ――じゃあ、彼女は違ったの?

「疑うなら俺んちこいって。どんだけ優しいか証拠見せてやるから」

「もう来ているよ」

 突如電話の声がすぐ側でも聞こえ、憲治は振り返る。そこには十二、三の少女が立っていた。いや、よく見れば少年だとわかった。足元には灰色の毛並みをした犬がいる。

「なんだ、てめえは」

 すごんで見せるも憲治は驚きを隠せない。玄関は鍵がかかっている。ベランダの戸は開いているが、ここは5階だ。どこからこの少年は入ってきたというのだ。

「おれはさ、別に構わないんだ」

 憲治の問いに答えず少年はそう言った。

「あんたが死のうと。あんたを殺そうと」

「は? 俺を殺すって、馬鹿かお前」

 どうみても目の前の少年は非力そうに見える。問題は大きな犬だが、それすらもなんとかなるだろう。相手が行動を起こしても平気だという思いが憲治にあった。そばにある消臭スプレーを気づかれないように握った。

「むしろ彼女のためにはそのほうがいいと思っている」

 少年の「彼女」という言葉に憲治はぴんときた。

「お前、百合に頼まれたのか? 俺を殺すように」

「彼女はそんなこと頼まないよ」

「そうだろうな。で、あの女はどうなった。まさか死んだか?」

「もし、そうだったら?」

 憲治は口笛を吹いた。

「見直すよ。あいつのことだから俺に迷惑をかけないように死んでくれたんだろうな。あいつはそういう女だからな。まったく馬鹿な女だ」

「死んだよ」

 少年はそう告げた。冷たい目が憲治に向けられていた。自分より一回り以上も年下の子どもの目に憲治は怯んだ。知らずに一歩、後ずさっていた。なんなんだ、こいつは。

「それで? 俺に復讐か、お前が。何の力もないお前が俺を殺せるのか」

「もし、あんたが少しでも彼女を想っていたなら考え直すつもりだった。でもあんた、おれが思ったとおりの最低な男だったよ」

 少年がゆっくりと近づいて来た。犬は動こうとしない。ということはこの少年が自分に挑んできているというわけだ。しょせん子どもだ、憲治は鼻で笑った。

「がきが生意気いうんじゃねぇ!」

 憲治は消臭スプレーを少年の目をめがけて拭きつけた。これでこいつはもうどうにでもなる。あとは犬だけだ。

 勝利を予感したが、少年は彼の前から消えていた。状況が飲み込めず、少年を探そうとする前に誰かが右腕を掴んだ。

「ひっ」

 短く情けない悲鳴が口から漏れた。右腕をつかんでいるのは目を潰したと思った少年だった。その様子からはスプレーがかかったとは思えなかった。

 信じられないほどの力で少年は憲治の腕を掴んだ。

「おれ、あんたのこと殺したいくらい憎んでるよ」

 少年の目に憲治は怯えた。この目は本気で自分を殺そうとしている。

「でも、彼女はそれを望んでいない。生きたいという思いよりもあんたへの想いが強かったんだ」

 憲治はすでに恐怖に支配されていた。少年は強者であり、自分は弱者なのだ、憲治は悟った。

「おれが怖い? でも、彼女はもっと怖かったし、苦しかったんだ!」

 少年の瞳が深みを増した。憲治の意識はその瞳に飲まれるように遠のいていった。


 秋都は足元に転がる男を冷めた目で見つめていた。

「あんたは殺さないよ。それが彼女の望みだからね。でも、もう二度とあんたは元に戻れない。あんたには光は永遠にない」

 意識のない男に伝えると、秋都はベランダに向った。傍観していた冬馬は男を一瞥すると秋都に続いた。

「一つ言っておくよ。高橋百合は死んだ。もう、あんたを心から愛してくれた女性はいない」

 ここにこれ以上、用はない。秋都は五階のベランダから飛び降りた。

 秋都の罪はまた一つ増えた。

 それでもよかった。秋都は後悔などしていない。

 雨がすべてを洗い流すかのように降り続いていた。


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