7
雨が降り出したのは日も沈み、暗くなってからだった。秋都は決心がつかず、まだこの町に留まっていた。
〈行かないのか〉
「行くよ。でも」
ふんぎりがつかないのはなぜだろう。百合にだって会った。思い残すことはもうないはずなのに。
大きな犬を供に秋都は傘をさして、歩いていた。どこに向っているのかは秋都にもわからない。冬馬は黙って付いて来るだけだった。
「……あれ」
道路を挟んだ反対側の道に見知った顔があった。でもどこで会ったのかはすぐに思い出せなかった。端整な顔立ちの男。教えてくれたのは冬馬だった。
〈百合の男だ〉
思い出したとたん怒りがわいた。そうだ、あいつだ。彼女を傷つけたあの男だ。
〈最初すれ違ったとき、微かに匂った〉
冬馬が言う。
〈血のにおいがした〉
「彼女の?」
〈あのときは誰のかはわからなかった。でも、今はあれが百合の血の匂いだったとわかる〉
秋都は反対側の道を歩いたまま、男をつけた。どうしても一言いわないと気がすまなかった。手を出すつもりはない。悔しいが百合はそれを望んでいないから。
〈秋都、今は強くあの男から血が匂う。百合の新しい血だ〉
「何だって?」
足を止めると、冬馬が秋都を見上げていた。その瞳が訴えている。言葉にしなくても秋都にはわかった。
「冬馬、彼女のところへ案内して!」
言うや否や冬馬は走り出した。秋都は傘を放りだしてその後に続いた。
マンションの屋上だった。柵のそばにしゃがみこむ人影が一つあった。傘もささず、動かない。その人影が、柵の外にいるのだとわかり、秋都は息を呑む。
「お姉さん?」
秋都の呼び声に影はだるそうにこちらを向いた。夜目の利く秋都にはその顔がはっきりとわかった。怒りよりも何よりも涙が目に溢れた。
整った綺麗な顔は今はその面影もない。悪意もなしにここまでやれるものなのか。彼女を愛しているのなら、そもそも手を出さないはずだ。
秋都は百合に駆け寄った。苦しそうにそれでも百合は秋都を見た。
「秋都、くん。まだいたんだ」
かすれた声だった。雨音にさえ掻き消されてしまいそうなほど小さな声だった。
「あいつにやられたんだね」
「……うん。でも、今度こそ別れたから。振られちゃったの、私」
「早く病院に行こう」
柵を越えようとしたが、やんわりと拒絶させられた。
「いいのよ、もう」
どれくらいここにいたのか。百合の体はひどく濡れていた。。
「何が、よくないよ」
「私ね、やっぱり憲治が好きなんだ」
「どうして、そんなひどいことまでされて、どうして」
「どうしてかな。でも、人を好きになるって言葉で簡単に、言い表せること、出来ないと思うの」
百合は秋都から顔を背けた。
「わからない、けどそんなものよね」
雨音に混じり、百合の嗚咽が聞こえた。秋都にはかけてあげられる言葉が見つからなかった。こんなとき、自分は子どもだとつくづく思う。気の利いた言葉も、なにもできない。
「本当に好きだった。殴られて、蹴られて、殺されそうになったって、一緒にいたかった! ただ、一緒に同じ時間を過ごして、笑って、それだけでよかったの。多くなんて望んでなかった! ただ、それだけでよかったのに」
百合の言葉に秋都は胸が苦しかった。咽が詰まりそうに苦しい。彼女の願いは秋都と同じだ。彼女はそれを相手の男に望んでいた。どちらも同じく叶うことはない。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう。いつから変わっちゃったのかな。私がいけなかったのかな」
雨が降り続く。百合は息苦しそうに肩で息をしていた。お腹が痛いのか手で抑えている。
「お姉さん、病院へ行こう。風邪引いちゃうよ」
百合は答えなかった。秋都はいつでも動けるように態勢をととのえる。隣の冬馬からも緊張が伝わった。
「私、死ぬのかな。そんな気がする。ここで死んだら憲治が私を殺したことになっちゃうよね」
百合の視線が下へ移動した。
「ねぇ、秋都くん、ここから飛び降りたらわからないよね? 私が死んでも憲治はつかまらないよね」
「馬鹿なこというなよ! どうしてそこまであの男をかばおうとするんだよ! お姉さん、今から病院に行こう? 死なないよ、絶対に死んだりなんかしないから」
百合は微笑った。腫れた顔のせいでぎこちなかったが、それはまぎれもなくいつもと同じ穏やかなものだった。
「百合さん! お願いだから、生きてよ。生きようとしてよ。おれを一人にしないで!」
秋都は柵を握り締めた。その手にそっと百合が触れた。冷たく、柔らかな手だった。
「初めて名前を呼んでくれたね、ありがとう」
「今、そっち行くから動かないでね」
百合は緩く首を振った。百合の顔から流れるものが涙なのか雨なのかわからなかった。そして、自分の頬を濡らすのは涙だろうか、雨だろうか。
「本当はこわいの。死にたくなんかない。私だって生きたい。幸せに生きたかった!」
「じゃあ、生きようよ! あんな男のために死ぬなんてもったいない。言っただろ、百合さんならもっといい男を捕まえられるって。百合さんだってこれからなんだよ? おれと違って百合さんには未来があるんだ!」
秋都の言葉が届かない。どうすることもできないのか。命を奪うことはできても、大切な人を守ることはできないのか。
「ほんと、馬鹿な女。でも、これが私の生き方だった。あの人を心から愛することができたことが、私の誇り」
百合は秋都に背を向ける。秋都は柵に足をかけた。
「でも、秋都くんに会えてよかった」
最後に見せた笑顔は雨に濡れ、大きく腫れた顔で、それでも今までで一番美しかった。
百合はそのまま飛び降りた。同時に秋都が柵を越えた。伸ばした手は虚しく空をつかんだ。
彼女を助けたかった。
自分が生まれた意味があるのなら、それは今ここで彼女を助けることにほかならない。
たとえ、自分の命と引き換えだとしても。




