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 雨が降り出したのは日も沈み、暗くなってからだった。秋都は決心がつかず、まだこの町に留まっていた。

〈行かないのか〉

「行くよ。でも」

 ふんぎりがつかないのはなぜだろう。百合にだって会った。思い残すことはもうないはずなのに。

 大きな犬を供に秋都は傘をさして、歩いていた。どこに向っているのかは秋都にもわからない。冬馬は黙って付いて来るだけだった。

「……あれ」

 道路を挟んだ反対側の道に見知った顔があった。でもどこで会ったのかはすぐに思い出せなかった。端整な顔立ちの男。教えてくれたのは冬馬だった。

〈百合の男だ〉

 思い出したとたん怒りがわいた。そうだ、あいつだ。彼女を傷つけたあの男だ。

〈最初すれ違ったとき、微かに匂った〉

 冬馬が言う。

〈血のにおいがした〉

「彼女の?」

〈あのときは誰のかはわからなかった。でも、今はあれが百合の血の匂いだったとわかる〉

 秋都は反対側の道を歩いたまま、男をつけた。どうしても一言いわないと気がすまなかった。手を出すつもりはない。悔しいが百合はそれを望んでいないから。

〈秋都、今は強くあの男から血が匂う。百合の新しい血だ〉

「何だって?」

 足を止めると、冬馬が秋都を見上げていた。その瞳が訴えている。言葉にしなくても秋都にはわかった。

「冬馬、彼女のところへ案内して!」

 言うや否や冬馬は走り出した。秋都は傘を放りだしてその後に続いた。


 マンションの屋上だった。柵のそばにしゃがみこむ人影が一つあった。傘もささず、動かない。その人影が、柵の外にいるのだとわかり、秋都は息を呑む。

「お姉さん?」

 秋都の呼び声に影はだるそうにこちらを向いた。夜目の利く秋都にはその顔がはっきりとわかった。怒りよりも何よりも涙が目に溢れた。

 整った綺麗な顔は今はその面影もない。悪意もなしにここまでやれるものなのか。彼女を愛しているのなら、そもそも手を出さないはずだ。

 秋都は百合に駆け寄った。苦しそうにそれでも百合は秋都を見た。

「秋都、くん。まだいたんだ」

 かすれた声だった。雨音にさえ掻き消されてしまいそうなほど小さな声だった。

「あいつにやられたんだね」

「……うん。でも、今度こそ別れたから。振られちゃったの、私」

「早く病院に行こう」

 柵を越えようとしたが、やんわりと拒絶させられた。

「いいのよ、もう」

 どれくらいここにいたのか。百合の体はひどく濡れていた。。

「何が、よくないよ」

「私ね、やっぱり憲治が好きなんだ」

「どうして、そんなひどいことまでされて、どうして」

「どうしてかな。でも、人を好きになるって言葉で簡単に、言い表せること、出来ないと思うの」

 百合は秋都から顔を背けた。

「わからない、けどそんなものよね」

 雨音に混じり、百合の嗚咽が聞こえた。秋都にはかけてあげられる言葉が見つからなかった。こんなとき、自分は子どもだとつくづく思う。気の利いた言葉も、なにもできない。

「本当に好きだった。殴られて、蹴られて、殺されそうになったって、一緒にいたかった! ただ、一緒に同じ時間を過ごして、笑って、それだけでよかったの。多くなんて望んでなかった! ただ、それだけでよかったのに」

 百合の言葉に秋都は胸が苦しかった。咽が詰まりそうに苦しい。彼女の願いは秋都と同じだ。彼女はそれを相手の男に望んでいた。どちらも同じく叶うことはない。

「どうしてこんなことになっちゃったんだろう。いつから変わっちゃったのかな。私がいけなかったのかな」

 雨が降り続く。百合は息苦しそうに肩で息をしていた。お腹が痛いのか手で抑えている。

「お姉さん、病院へ行こう。風邪引いちゃうよ」

 百合は答えなかった。秋都はいつでも動けるように態勢をととのえる。隣の冬馬からも緊張が伝わった。

「私、死ぬのかな。そんな気がする。ここで死んだら憲治が私を殺したことになっちゃうよね」

 百合の視線が下へ移動した。

「ねぇ、秋都くん、ここから飛び降りたらわからないよね? 私が死んでも憲治はつかまらないよね」

「馬鹿なこというなよ! どうしてそこまであの男をかばおうとするんだよ! お姉さん、今から病院に行こう? 死なないよ、絶対に死んだりなんかしないから」

 百合は微笑った。腫れた顔のせいでぎこちなかったが、それはまぎれもなくいつもと同じ穏やかなものだった。

「百合さん! お願いだから、生きてよ。生きようとしてよ。おれを一人にしないで!」

 秋都は柵を握り締めた。その手にそっと百合が触れた。冷たく、柔らかな手だった。

「初めて名前を呼んでくれたね、ありがとう」

「今、そっち行くから動かないでね」

 百合は緩く首を振った。百合の顔から流れるものが涙なのか雨なのかわからなかった。そして、自分の頬を濡らすのは涙だろうか、雨だろうか。

「本当はこわいの。死にたくなんかない。私だって生きたい。幸せに生きたかった!」

「じゃあ、生きようよ! あんな男のために死ぬなんてもったいない。言っただろ、百合さんならもっといい男を捕まえられるって。百合さんだってこれからなんだよ? おれと違って百合さんには未来があるんだ!」

 秋都の言葉が届かない。どうすることもできないのか。命を奪うことはできても、大切な人を守ることはできないのか。

「ほんと、馬鹿な女。でも、これが私の生き方だった。あの人を心から愛することができたことが、私の誇り」

 百合は秋都に背を向ける。秋都は柵に足をかけた。

「でも、秋都くんに会えてよかった」

 最後に見せた笑顔は雨に濡れ、大きく腫れた顔で、それでも今までで一番美しかった。

 百合はそのまま飛び降りた。同時に秋都が柵を越えた。伸ばした手は虚しく空をつかんだ。

 彼女を助けたかった。

 自分が生まれた意味があるのなら、それは今ここで彼女を助けることにほかならない。

 たとえ、自分の命と引き換えだとしても。 



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