3
なりゆきで夕飯をご馳走になったあと、秋都は百合の家を出た。冬馬が名残惜しそうに珍しく尻尾を振っていた。
「めずらしいね、冬馬が懐くなんて」
〈それは秋都も一緒〉
冬馬に言い返され、生意気な、と冬馬を睨む。確かに冬馬が言っていることも当たっていたが。
初対面だが、百合は居心地のよい空間を作り出してくれて、秋都も本当は家をでるのが名残惜しかった。
だが、もう係わり合いになることはないだろう。
マンションの静かな廊下に足音はない。気配を殺して行動する癖がついているからだ。
突き当たりにある階段で、三十近くの男とすれ違った。端整な顔立ちの男で、顎に伸ばした短いひげもよく似合っている。この男は歳を重ねるごとに格好よさが増していくタイプの人間だろう。
男とすれ違いざま、冬馬が僅かに表情を変えた。その違いは秋都にだけわかる微妙なものだったが。
「どうかした?」
冬馬の様子が気になり、秋都は男の姿を目で追った。男が立ち止まったところは紛れもなく、秋都たちが先ほど出てきたばかりの部屋だった。男がなれた様子で部屋に入るのまで見届けて、秋都たちは階段を下りた。
「彼女の恋人かな」
年齢を考えれば不思議はない。美男美女のお似合いのカップルというところだろう。
「なるほど、やきもちってこと」
相方を見ると、秋都のひやかしに付き合うつもりはないのか、ひたと正面を見据えて歩いていた。灰色のふさふさとした尾がバランスを取るように左右に揺れる。
マンションを出て、秋都は空を見上げた。百合が言う、細い月を見ようと思ったからだ。
しかし、月は雲にその姿を隠されていた。
秋都は思わず自嘲めいた笑みを漏らす。
〈秋都〉
冬馬が秋都を呼んだ。緊張した様子が伝わる。
「わかってる。――行くよ」
秋都と冬馬は走り出した。全力をだした彼らに追いつけるものはいない。
慌てたように黒スーツの男たちが三人暗がりから飛び出したが、すでに二人の姿を見失っていた。
自分はどうして生きているのだろう、秋都は思う。何のために生きているのだろう。
何のために生まれてきたのだろう。
数え切れないほど自問した問いだ。答えを秋都は見つけられない。冬馬もそれには答えられないだろう。
「逃がしたか。すばしこい奴らだ」
二人を追いかけて、公園まで来たところで男たちは足をとめた。
「マンションの女は仲間か?」
さあ、ともう一人の男が答えた。
「聞いてみればわかる」
微笑った顔は、誰かを傷めたくてしかたがない、といった表情に見えた。
「関係ないよ」
ふいに聞こえた声に男たちは上を見上げた。ジャングルジムの天辺にいつの間にか少年が座って男たちを見下ろしていた。
少女のような顔立ちをした少年は静かな目で男たちを見ていた。
「ハルキも頭が悪いね、こんな使えない男ばかり送ってきたってどうしようもないのに」
「使えない、だと」
男たちの目に殺気が宿る。
「違う? なら試してみようか」
秋都はジャングルジムから飛び降りると、男たちに近づいていった。男の一人がスーツの内側に手を入れた。しかし、男が武器を取り出すのより早く、秋都は地を蹴り、男の首に左腕を伸ばした。みるみるうちに男が干からびていく。男は腕を振り解こうと秋都の腕に爪を立てたが、なんの効果もなかった。
完全に動かなくなった男を秋都は離した。男はそのまま地面に倒れると、崩れた。
「わあぁっあぁ!」
叫びを発し、残った二人のうちの一人が秋都に向って銃を構えた。しかし、男はすぐに違和感に気づく。
銃もろとも肘から先が闇に消えていた。
灰色の獣が加えているのははたしてなんなのか。目の前の少年は自分に何をしようとしているのか。
思考がつながる前に、男の意識はなくなった。その意識が再び戻ることは決してない。
最後の一人は仲間があっけなくやられる様をただ呆然と見ていた。綺麗な顔をした少年が死神に思えた。
「……化け物」
言葉でしか攻撃できない男に秋都は笑った。
「否定はしないよ。それとお前は殺さない」
言うと秋都は男の目を覗いた。秋都の瞳が深みを増す。
「ハルキに伝えて。おれに構うな。これ以上付きまとうならすべてを壊してやるって」
男は虚ろな目で頷いた。そのまま、歩いて秋都たちの前から去っていった。
秋都はたった今できたばかりの二つの砂山に目をむけると、男とは反対の方向へ向って歩き出した。後ろから冬馬がついて来る。
〈大丈夫か〉
「何が? 何もかわらないよ」
冬馬はそれ以上何も言わなかった。
化け物、男が言った言葉が耳に残る。自分が化け物だという自覚はあった。だからといって黙って狩られる筋合いはない。命を狙ってきた奴を返り討ちにしただけだ。
でも、と思う。
自分は化け物だが、男たちは違う。確かに人間だ。
自分は人を殺して生きている。
化け物の自分が。
そこまでして生きる意味はあるのだろうか。
「――!」
ぐるぐると頭の中を回る声に秋都は声にならない叫びを上げた。百合の笑顔がなぜかすでに懐かしいものとなっていた。
自分だって普通に生きたい。ああやって毎日誰かと笑って過ごしたい。
秋都にとってそれは小さくても叶うことのない望みだった。
足に柔らかいものがあたることに気づいた。歩きながら冬馬のしっぽが秋都の左足にぱたりぱたりと当たる。
一番の親友がちらりと秋都に視線を送った。普段と変わりない、どこか馬鹿にしたような目に秋都は微かに笑った。
そのまま、冬馬のしっぽがリズミカルに左足にあたるのを感じながら、秋都は夜道を進んでいった。