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見られた、と秋都は思った。相手に気を取られすぎて、気づかなかったのだ。自分の失態に小さく舌打ちする。
〈消すか?〉
落ち着いた声がそう聞いた。その恐ろしい考えを秋都は軽く手を上げて制した。
「そんなことする必要はないよ」
そうは思っていても女がいつ悲鳴をあげるか気が気でなかった。
秋都はゆっくりと女に近づく。女は驚いたような表情をし、口を手で覆ったまま固まっていた。完璧に見られた、と秋都は確信した。
夜でも秋都の目には離れた女の姿がはっきりと見える。二十代後半の髪の短い、はっきりとした顔立ちの綺麗な女性だった。この暑さのなか首にスカーフを巻き、長袖のシャツを着ていた。
女からも顔が確認できる位置で立ち止まり、秋都は話しかけた。
「お姉さん、今の見た?」
聞くと、彼女は手を口から離し、こくんと一つ頷いた。
〈どうする〉
冬馬が聞いた。
どうするも何も決まっている。忘れてもらうしかない。
冬馬だけが聞こえる大きさで秋都は答えた。さて、と彼女を見ると、秋都が驚くような行動にでた。
「わぁ、シェパードかと思ったけど違うみたい。もっと毛がふさふさとしているのね。灰色の犬ってあまり見ないわ」
しゃがみ込んでこともあろうに、冬馬を撫でようと手を伸ばしたのである。秋都が止めようとするのも間に合わず、彼女は冬馬の首を撫でた。意外なことに当の冬馬は大人しく撫でられたままになっている。
どうしたんだよ、という秋都の呆れ声に冬馬はそっぽを向いた。
「私、犬飼っていたから扱いには慣れているの。この子、なんていうの?」
「……冬馬」
秋都はつい答えていた。冬馬か、と彼女は笑った。変わった人だと秋都は思った。あんな光景を見てどうして何もなかったかのように振舞えるのだ。
「冬馬、格好いい名前ね。私は百合、よろしくね」
百合は冬馬の胴を軽く叩いた。その様子に秋都は何だか気が抜けてしまった。
「冬馬、行くよ」
秋都の呼び声に冬馬は百合から離れた。
〈いいのか、あれ〉
放っておいても大丈夫だろう、秋都はそう答えた。
「――待って」
百合が呼び止める声に、秋都は足を止めた。
「私の家、すぐそこなの」
百合は公園から100メートルほど離れた15階建てのマンションを示した。
「よかったら夕飯を食べていかない?」
手にしたスーパーの袋には野菜や肉などの食材が入っていた。