エピローグ
看護士の腕を掴みながら男が歩いていた。足取りはゆっくりでおぼつかない。左手は看護士の腕に、右手は杖を手にしていた。
何かの拍子か男の手から杖が離れた。消えた右手の感触に男の足が止まる。ひざをついて杖を捜した。
「どうぞ」
女が杖を拾い、男に差し出した。それにもかかわらず、男は杖を探し続ける。その様子に目と耳が不自由なのだと気づき、女は男の肩を軽く叩いてから立ち上がらせた。その手に杖を握らせる。戻った感触に男は戸惑いながらも頭を下げた。
「――高橋さん」
自分を呼ぶ声に女は振り返った。お世話になった看護士が呼びに来てくれたのだ。
「お母様がお迎えにいらっしゃていますよ」
「わかりました」
答えて、彼女は視線を先ほどの男に送る。
「お知り合いですか」
「いえ、違います。ただ、ちょっと気になったので」
看護士は彼女の視線の先を見て、得心したように「ああ」と声を漏らした。
「あの方は目が見えないんですよ。耳も聞こえなくて、声を出すこともできないらしんです。それも後天的だとかで。昨日から検査でいらっしゃっているんです」
話してから若い看護士はばつの悪そうな表情を作った。
「少し話しすぎましたね。内緒、ということでお願いします」
はい、と彼女は微笑った。そして、看護士の腕に目を留める。
「そういえば、どうしたんですか?」
二本の白い百合の花が看護士の腕に抱えられていた。
「これ、高橋さんにですよ。退院祝いみたいです」
看護士は花束を渡した。
「かわいい男の子が持ってきたんですよ。……覚えていますか?」
良い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。温かい気持ちが胸に入り込んできた。
「いいえ。でも、なんだかぼんやりと思い出すことがあります。落ちてゆく私の手を握った暖かくて小さな手を」
看護士は笑った。
「高橋さんどこからも落ちていないのに、不思議ですね」
そうですよね、と彼女は少し照れた風だった。
「――百合」
母親の声だとわかった。最初は違和感のあった女性も、今は自分の母親だとわかるようになった。忘れたことはあまりにも大きくて、これからの人生は楽じゃないことも多いだろうが、それでも彼女は今とても希望にあふれていた。
ここからまた始まるのだと。
「高橋さん、退院おめでとうございます」
看護士が笑って出送ってくれた。
「ありがとうございます」
彼女は笑った。明るく、穏やかで優しい笑顔だった。
〈もういいのか〉
「いいよ。久しぶりに戻ってきたけど、もうここには用はないから」
秋都の足取りは軽やかだった。
彼女はもう大丈夫だろう、そう思える。きっとこれから素敵な人が現れて、幸せな人生を送るのだ。そうでなければならない。あの人には笑顔が似合うのだから。
恋と呼ぶにはあまりにも幼い。それでも秋都は百合のことを好きだった。
それこそ命を投げ捨ててでも助けたいと思うほどに。
秋都の望みはきっと叶わない。
問いに対する答えも見つからないままだ。自分はなんのために生きているのか。なんのために生まれたのか。
だが、それも今はどうでもいい。
吹く風が秋の訪れを感じさせた。今の秋都にはその少し涼しげな風を楽しむ余裕がある。
「花にはね、花言葉ってあるんだ。知っていた?」
〈知らない〉
「百合の花言葉は『清純』。彼女にぴったりだよね。百合さんはすごく綺麗な人だった。心もすべて」
〈そうだな〉
冬馬が笑ったように見えて秋都は思わず笑った。
〈どうした〉
「なんでもないよ」
秋都は答えると冬馬の胴を軽く叩き、走り出した。
最後まで読んでいただきありがとうございました。シリーズを考えているので、次の話もよろしくお願いします。