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はなのさきがけ

『芳梅を さきがけ妬かる 寒桜 落ちればあとに 香追うものなし』


「中もかわりんしたな」

 呟く女郎が表に止まった人力車を眺めては煙管の煙をくゆらす。明治の世になって大してたたぬうちに、廓の中は大層激しい変化のし様だった。

駕籠ですら御医師でしか入れなかった廓の中の、今はそこかしこの見世に大きな車輪で轍を作る人力車が止まっている。綺麗に熨された袴を履いた武士は消え、ちらほらと、まだ不恰好に映る着慣れぬ洋装の男たちが左の肩を下げながら歩いていた。


「いいじゃないか、もうお前には関係のない話さ。こんなご時世に女郎なんざをご新造に迎えようってんだ。幸せもんだよ。」

 見世の女郎を取り仕切る遣り手婆のおみねは、柔らかな声とは裏腹に頬も緩めず、女郎の着ている着物やかんざしに不備はないかと猿の毛づくろいよろしく張り付いている。おみねが何かを直そうと着物を引っ張るたびに、含んだ煙管の煙が不意に漏れる。それすら気だるく美しく映る女はこの見世で一番の売れっ妓であり、そして今日身受けをされる。相手は戊辰のときに手柄を立てたとか言う、元は藩士も下っ端の方だったが、運良く成り上がったどうにもとぼけたお役人の男だった。


「ようござんしたのう、住ノ江」

 襖を引いて、住ノ江と呼ばれたその女郎の部屋に入ってきたのは、朋輩の女郎である雛鶴だった。同じ女衒から売られてきた二人は、同じ見世でずうっと過ごしてきた仲であった。

「けっ。お職があんな小侍に揚げられるなんて、徳川の世なら江戸の街どころか上方まで話題が持ちきりでありんすよ」

 はしたねえこった、と言葉尻で呟いた住ノ江をおみねはきっと睨みつける。それを茶化すように両眉を引き上げて見せる住ノ江に、雛鶴はくすりと笑った。


「おみねさん、わっちに化粧させてくんなんし。今日で最後じゃ、餞代わりにいたしんしょ」

 雛鶴の申し出に「それはいいのう」と住ノ江が呟くと、おみねは俄かに眉間のしわを深くしたが、それでも二十年来の朋輩とあればと、素早く支度を整えると、その席を雛鶴へと譲った。

 雛鶴は紅の入った緊迫で覆われた細工の細かい豪奢な貝を持ち上げて、小筆で住ノ江の薄い唇に色を挿して行く。ゆっくりとしたその様にじれったいとばかりに息を吐いたおみねは「はやくしとくれよ」と言い置くと、禿を引き連れて部屋を後にした。


「小侍でも浅葱裏でもひん剥いちまえばただの男さ。生きてここから出られるならめっけもんじゃないか」

 目の前で低く呟く雛鶴に住ノ江は目で笑う。動かしかけた唇は筆の先でぐっと押さえつけられていた。

「そういやあ、昨日の小火はどうしんした。支度にかまけて誰も教えちゃくれねえのさ」

 雛鶴が紅を差し終えた筆を懐から取り出した懐紙に納めると、漸く住ノ江は言葉を許された。件の小火とは、昨日不意に江戸町壱丁目の脇に申し訳程度に枝を伸ばしていた寒桜のある小路から出火したものだった。

「あれは直ぐに消えんしたよ。おめえの言ってたあの寒桜は焼けちまったけどね」


 住ノ江の吸い挿しの煙管を咥えると、雛鶴は一つふかして僅かに目を伏せたままの住ノ江の口に返した。

「みじめなもんさ。匂いもなけりゃ騒がすだけ騒がして実もみすぼらしい。何処がいいのかわかんないね。燃えてくれて丁度良かったよ」

 筆についた紅の余りを自分の唇でぬぐいながら憎い口を利く雛鶴の顔を、住ノ江は食い入るように見つめていた。

「だからわっちはおめえが憎いのさ住ノ江」

 雛鶴の口の端がゆがんだ瞬間、絹を裂くような住ノ江の声が見世に響きわたった。



 小路の寒桜が燃えたのは出来すぎた偶然だと思えた。住ノ江が悲しむ顔は思い浮かべただけで雛鶴の心は痛んだが、まるで謀の成功を予見されたようで心が沸き立ってもいた。

 明日住ノ江は身請けをされる。成り上がりの金に物をいわせたとぼけた野郎は、随分と住ノ江の顔がお気に入りらしく、登楼して日がな一日ぼんやりと眺める事もある冴えない野郎だ。冴えない割りに、それまで住ノ江を贔屓にしていた旗本の旦那が先の戊辰戦争で敗れ落ちぶれたのを、それ見たことかと住ノ江の前であざけ笑うどうしようもない野郎だった。


 それでも暢気なもんさ。揚げられたが最後、徳川様を追っ払ったその男は新しい世の中で大層もてはやされ、住ノ江は直ぐに豪奢な洋装で海の向こうの踊りを踊るようになる。

 方やわっちは紅い牢屋の中で酒臭い息を浴びながら鼻が欠けるのを待つだけだ。


ああ憎い憎い。


この何日か、雛鶴はそればかりを頭の中で呟いていた。


 そしてまた今、それを呟いては住ノ江の唇に紅を塗り、残りを形見に自分へと挿した。

「だからわっちはおめえが憎いのさ、住ノ江」

 震える口で呟いて、火鉢の箸に手をつけその勢いのままに火箸を住ノ江の顔に押し付けた。

響き渡る住ノ江の声に容赦なく火箸を押し付けているところに、駆け込んできた若衆とおみねが血相を変えて雛鶴を取り押さえたが、既に時は遅く住ノ江は顔を抑えて蹲り、急ぎ駆け寄って手をのけたおみのが見たのは二本の線で焼け爛れた住ノ江の顔だった。

 すぐさま見世の中は上を下への大騒ぎとなり、階下に控えていたとぼけた野郎も気づいて駆けつけたが、住ノ江の顔を見るなり化け物を見たような驚きようで、おみねと楼主を呼びつけなにかつらつらと物をいうと、あっけなく待たせた人力車で帰ってしまった。


「ざまあねえ。住ノ江なんざ、たった二本の線で御破産さ」

 憎まれ口をたたく雛鶴は容赦なく荒縄で縛られた。しかしどんなに締め上げても、殴っても蹴っても、どこかにやついてみせる雛鶴はどうも気味が悪く、おみのも若衆も雛鶴が嫉妬に狂ったかと気味悪がって行灯部屋に閉じ込めてしまった。

 一方顔にくっきり二本の跡がついた住ノ江は、その後雛鶴の言うとおり身請けは破談になり、売り物にもならず、ほとんど押し付ける形で、吉原でも最も程度の低い羅生門河岸の見世に売られることとなった。


 しかし、ここで願ってもない申し出が沸いた。何処からか話を聞きつけたといって訪れた、随分みすぼらしい格好をした別当(馬の世話係)だという男が住ノ江の身請けを申し出た。鼻であしらうつもりだった楼主も、どう都合をつけたのか別当が胸元から出した金子の量が思った以上だったため、荷物を片付けるが如く二つ返事で了承したのだった。


 あくる日、住ノ江が男に連れられ去る後姿を禿が揃って見送った。

「旦那様よろしくおねがいしんす」

 と禿が呟いた。その親しみを込めた眼差しを不思議に思った一人の女郎が訳を聞いた。

「おめえあの男を知っていんすか」



「へえ、ご贔屓の旦那様にございんす」


『朋輩を さきがけ焼かる 寒桜 落ちればあとに 買おうものなし』

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― 新着の感想 ―
[良い点] これは和歌か何かを文章化したものだったのですね。 [一言] 是非解説が欲しいと思ってしまいました。 女の嫉妬から違う人に見受けされたのは、それはそれで良かったと思って良いのでしょうか。それ…
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