『時差のあったラブレター』
帰りの満員電車に揺られ、クタクタになってたどり着いたアパートの玄関。
のり子はため息混じりに、冷たいプラスチック製のポストを開けた。
中から出てきたのは、公共料金の請求書と、ピザ屋のチラシ。そして、その間に挟まれていた、一枚の、青色の封筒。すこし、汚れて、古びている青色の封筒。
「え……?」
指先が止まる。
のり子が昔住んでいた実家の住所と、
宛名に書かれた「小谷のり子様」という文字。丸っこいけれど、どこか力強い、懐かしい筆跡。
貼られているのは、今では見かけることもない数十年前の古い切手だった。
部屋に入り、バッグを床に置くのも忘れて、のり子は薄暗い玄関の明かりの下でその封筒を見つめ続けた。
「どうして、実家の住所が書いてあって、今のアパートに手紙が来るの?
それにしても絶対に商品の案内なんかの手紙だわ」
今の時代、そんな怪しい話ばかりだ。毎日オフィスでパソコンのキーボードを叩き、スマホの画面を滑らせ、世知辛いニュースばかりを目にしている大人ののり子にとって、それは当然の警戒だった。
最近は、ポストに投函されているものも、スマホに流れてくるメールもそんなのばかりだ。
のり子はフッと自嘲気味に笑って、それをゴミ箱へ投げ捨てようとした。
そうして冷めた手つきで便箋を裏返した、その瞬間。
のり子の息がぴたりと止まった。
便箋の裏の、一番端の、目立たない場所にそれがあった。
不器用に描かれた、小さなハートマーク。そして、その中に隠されるように、ぽつんと書かれた「マ」の文字。
「……あ……」
のり子の指先が、小さく震え出した。
それは、クラスの友達はもちろん、家族だって、世界中で誰一人として知るはずのない、あの頃の二人の約束の暗号だった。
学校では付き合っていることがバレるのを恐れて、教室でも廊下でも、あえて目を合わせずによそよそしく振る舞っていた二人。冷たい態度をとってしまっては、お互いに心の中でこっそり傷ついたり、申し訳なく思ったりしていた。
けれど、カバンの底や机の隅に滑り込ませた手紙の中だけは違った。
マサトがくれた手紙の裏にはいつも、ハートの中に彼のイニシャルである「マ」があった。そしてのり子が渡す手紙の裏には、ハートの中に「の」を書いた。
手のひらの上でこっそりと重ね合わせていた、ふたりだけの秘密の合図。
学校では一言も口をきかない日だってあったのに、その手紙の裏には、いつもこの甘いマークが隠されていた。あの、宝石のようにきらめいていた、二人だけの放課後の匂いが、一気につんと鼻の奥を突き、玄関の冷たい空気を満たしていった。
「本当に、マサトなんだ……」
涙が視界を滲ませ、のり子の目から、自分でも驚くほど大粒の涙がポロポロと便箋にこぼれ落ちていった。
震える指で封を切り、便箋を広げると、涙でにじむ視界の向こうに、マサトの真っ直ぐな文字が並んでいた。
『のり子へ
今日、廊下ですれ違ったとき、冷たくしちゃってごめん。
周りに人がいたから焦っちゃって。本当は、すごく話しかけたかった。
今日も遠くから、のり子のこと見てたよ。
体育の時間、苦手な走る練習、一生懸命やってたね。
誰も見てないと思ってたかもしれないけど、俺はちゃんと見てたよ。
頑張ってたね。
帰りに、数学のノートを先生に届けてるのも見えた。
のり子はいつも、みんなが気づかないところで、ちゃんと頑張ってる。
今日、図書室の窓から見えた夕陽が、すごく綺麗だった。
一緒に見られたらよかったな。のり子にも、見せたかった。
今度、話す機会があったら、話したいことがあるんだ
俺、のり子にちゃんと伝えたいことがある』
今ののり子は、職場の同僚や、取引先の人、あるいは友人と話すときでさえ、常に「失礼のない正解」や「摩擦を避けるための最適解」を探して発言している。今の彼女にとって言葉は、心を通わせるためのものではなく、毎日を平穏に、円滑に回すための「効率的な道具」に成り下がっていた。
しかし、手紙の中に並ぶマサトの言葉は、それとは真逆のものだった。
なんの役にも立たないような、小さな出来事。
今日、虹が見えたこと。星がきれいだったこと。お月様が大きかったこと。猫が来たこと。
ビジネスの役には一ミリも立たない、お金にもならない、ただそれだけのこと。
けれど、当時の二人の間では、そんなどうでもいいような出来事の一つひとつが、まるで呼吸をするように大切に、愛おしく綴られていた。
そして、今ののり子が何よりも欲しかった言葉がそこにあった。
「誰も見ていないと思っていても、俺はちゃんと見ていたよ。頑張っていたね」
誰にも認められず、評価や数字ばかりを気にされ、すり減るように働いている都会の真ん中で、何十年も前のマサトの優しい眼差しが、時空を越えて今の自分を深く抱きしめてくれている。
のり子は、手紙からゆっくりと目を離し、顔をあげると、熱くなった目頭を指先でそっと押さえた。
どうして、今頃になってこんな手紙が届いたのだろう?
胸を突く不思議な気持ちと、言いようのない温かさを抱えたまま、のり子はその手紙を丁寧に折り畳んだ。
そして、明日仕事に持っていくための、いつも使っているビジネスバッグの底へと、お守りをしまうように静かに直した。そうして、彼女の長い一日が、静かに終わるのだった。
「もし、また出会えたら」
ビルの隙間から吹き抜ける冷たい風に吹かれながら、のり子は独りごとのように、小さく呟いた。
会社の屋上テラス。プラスチックの丸椅子に座り、コンビニで買ったサンドイッチの残りを傍らに置いて、のり子はバッグの底から取り出した手紙を何度も読み返していた。
「もしもあの頃の私に戻れたら、今度はちゃんと、言葉を届けることができるのかな……
マサトは、何を私に伝えたかったのかしら・・・もしかして・・・」
同じ学校、同じ学年。毎日のようにすれ違い、同じチャイムを聞いていたのに、周囲にバレるのを恐れるあまり、二人の会話はいつもカバンの底に滑り込ませた「手紙」の中だけだった。
面と向かって「好き」と伝えることも、手を繋いで下校することもないまま、卒業とともに二人の関係は静かにフェードアウトしてしまった。
どうして、あの時の私たちはあんなに不器用だったのだろう。どうして、もっと真っ直ぐに想いを伝え合わなかったのだろう。
そんな後悔ともつかない淡い痛みを胸に抱きながら、のり子はゆっくりと顔を上げた。
「――っ!?」
目を開けた瞬間、激しいめまいに襲われた。
目の前にあったはずの、灰色をした高層ビルの群れが、ぐにゃりと歪んで消えていく。
冷たかったはずの風が、にわかに生ぬるく、湿り気を帯びたものへと変わる。
そして、鼓膜を震わせたのは、キーボードを叩く音でも、遠くの道路を走る車の排気音でもなかった。
「やばい、先生来たよ!」
「席付けって! 急げ!」
バタバタと廊下を走る、ローファーの騒がしい音。
ガタガタと床をこする、木製の机と椅子の音。
窓の外から聞こえる、野球部の掛け声と、セミの鳴き声。
のり子は、自分が硬い木製の椅子に腰掛けていることに気づいた。
恐る恐る手元を見る。キーボードを叩きすぎて少し節くれ立った大人の手ではなく、そこにあるのは、白くて、少し幼さの残る、高校生の頃の自分の手だった。
着ているのはオフィスカジュアルのブラウスではない。紺色のセーラー服の袖が、机の上に置かれたのり子の腕を包んでいた。
「嘘……これ、どういうこと……?」
頭が混乱し、のり子は慌てて周囲を見回した。
見覚えのある、緑色の黒板。教室の後ろに貼られた、学級目標の画用紙。
ざわつくクラスメイトたちの顔。みんな、あの頃の同級生たちの姿のままだ。
夢だ。これはあまりにリアルな、手紙が見せた白昼夢に違いない。
そう自分に言い聞かせ、のり子は激しく波打つ心臓を押さえながら、ゆっくりと窓側の席へと視線を巡らせた。
窓際の後ろから二番目の席。
そこに、彼がいた。
少し癖のある黒髪。猫背気味の、細い肩。
マサトが、そこに座っていた。
彼は頬杖をついて、ぼんやりと窓の外の校庭を眺めている。
その横顔は、のり子の記憶の中にある、あの不器用で、シャイで、いつもどこか寂しげなマサトそのものだった。
ドクン、と心臓がひときわ大きく跳ねる。
「マサト……」
声にはならなかった。
けれど、のり子の熱い視線に気づいたのか、マサトがふと、窓の外から教室の中へと視線を戻した。
そして、二人の目が、まっすぐに交わった。
――いや、違う。
のり子は、胸の奥に小さな、けれど冷たい違和感を覚えた。
確かにマサトはこちらを見ている。あの愛おしい黒い瞳がのり子の方を向いている。なのに、どこか目線が噛み合わないのだ。
まるで、のり子の体をすり抜けて、その少し後ろの空間を見つめているような。あるいは、のり子の輪郭だけをぼんやりと捉えているような、奇妙なズレ。
確かめようと、のり子がもう一歩、身を乗り出そうとしたその時だった。
「よし、席に着け。授業を始めるぞ」
ガラガラと教室の前扉が開き、現れた担任の野太い声が、静まり返った教室に響き渡った。
その声を合図にしたように、マサトはすっとのり子から視線を外し、黒板の方へと顔を向けてしまった。
交わっていたはずの視線が、ぷつりと途切れる。
のり子は激しく鼓動する胸を押さえながら、今起こったことの余韻と、胸に残るかすかな違和感を必死に噛み砕こうとしていた。
授業が始まっても、のり子の頭の中はぐるぐると激しく回転したままで、教師の説明は右の耳から左の耳へと通り抜けていった。
教科書を開く手の震えが止まらない。私は本当に高校生に戻ってしまったのだろうか? なぜマサトが目の前にいるのか? すべての理解が追いつかず、パニックになりそうだった。
(でも……そうだ。授業が終わったら、マサトのところに行けばいいんだ)
少しずつ、大人ののり子の理性が冷静さを取り戻していく。
ここはあの頃の教室だ。そしてすぐそこにマサトがいる。授業が終わるのを待って、彼の席へ行き、直接話しかければいい。どうしてこんなことが起きているのか、これは夢なのか、マサトに聞いてみればいい。
そうだよ、話しかければいいだけじゃない。今の私は、大人ののり子なのだから。
キーンコーンカーンコーン……。
やがて、授業終了を告げるチャイムがスピーカーから鳴り響いた。
「じゃあ、今日はここまで。号令」
日直の声、そしてざわめき始める教室。
(よし……行くんだ)
のり子は意を決して、マサトに歩み寄ろうと席を立とうとした。
――しかし。
トクン、と心臓が引き裂かれるように痛んだ。
マサトの姿を網膜に捉えた瞬間、胸の奥から湧き上がってきたのは、大人の冷静さでは到底抗えないほどの、強烈な波立ちだった。
息が、浅くなる。
手足が、冷たく縛られたように強張る。
(どうして……? 足が、動かない……)
驚くほどに身体が動いてくれない。マサトのことを考えただけで、首の血管が破裂しそうなほどに鼓動が速くなっていく。
すぐそばに彼がいるのに。話しかけたいと、頭では死ぬほど願っているのに。
この身体が、この脳が、高校生の時の「恐怖」と「恋心」を完璧に記憶していたのだ。
『マサトに話しかけてはいけない。周りに二人の関係がバレたら、すべてが終わってしまう。壊れてしまう』
あの頃ののり子を支配していた絶対のルールが、金縛りのようにのり子の全身を縫い留めていた。
「ねえねえ、のり子! この前のテレビ見た? あれさあ、本当に面白くて……」
不意に、後ろから親しげな女子生徒の声がして、のり子の肩がびくりと震えた。
「あ……うん、えっと……」
のり子は曖昧に声を絞り出すことしかできず、その場に釘付けにされたまま、マサトのいる窓際へと、ただ視線を向けることしかできなかった。
結局、その後の授業でも、放課後を迎えるまで、のり子はマサトに一度も話しかけることができなかった。
時間はただ無情に、けれどあの日と同じ速度で過ぎていった。
(どうして……? すぐそこに、ほんの五、六歩歩いていけば届く場所にマサトがいるのに。どうしてこんなに胸がざわめいて、一歩も足が動かないの……?)
もどかしさと、かつての自分の臆病さへの苦い痛みが、のり子の胸をいっぱいに満たしていく。
「のり子、早く行こ! 置いてっちゃうよ?」
放課後になり、賑やかさを増す教室で、友達に急かされるようにしてのり子は席を立った。
ざわざわと混み合う廊下を通り、下駄箱へと歩いていく。
「それでさ、今日の数学の小テスト、マジで難しくなかった? のり子はどうだった?」
隣を歩くクラスメイトの友達が、絶え間なく何かを話しかけてくる。けれど、のり子の耳にはその声がまるで遠い水底から聞こえるかのように、ぼんやりとしか届かない。
「あ……うん、そうだね……」
生返事の相槌を打つのが精一杯だった。のり子の頭の中は、今も教室に残してきたマサトの、あの寂しげな背中のことで支配されていた。
どうすればいい。このまま、またあの頃と同じように、一言も交わさずに一日が終わってしまうのだろうか。
下駄箱の前にたどり着き、のり子が自分の上履きに手を伸ばそうとした、その時だった。
「――ちょっと、のり子。のり子ってば!」
友達が呆れたような、不思議そうな声をあげて、のり子の顔を覗き込んできた。
「え? あ、ごめん、なに……?」
「なに、じゃないよ。ねえ……カバン、どうしたの?」
「カバン……?」
言われて、のり子は自分の両手を見つめた。
そこには、何もなかった。
マサトのことばかりを考えて上の空だった彼女は、教科書や筆箱、そして何より「手紙」をしまうはずの通学カバンを、教室の机の横にかけたまま、手ぶらで下駄箱まで来てしまっていたのだ。
「あ……!」
のり子の心臓が、大きくドクンと跳ねた。
ざわめく友達の声を背中で聞きながら、のり子は一人、慌てて階段を駆け上がっていた。
夕暮れの廊下は、オレンジ色の柔らかな光と、長く伸びた教室の影で満たされている。
部活動の掛け声が遠くから響く中、のり子は自分の教室の前扉に手をかけ、そっと引いた。
ガラガラ……。
静まり返った教室。
放課後の、埃が光の粒のように舞う空間。
そこに、彼がいた。
マサトは自分の席に座ったまま、頬杖をついて、ぼんやりと赤く染まる校庭を眺めていた。
教室には、彼以外に誰もいない。
今なら、他の誰の目も気にすることなく、マサトと話ができる。大人になったのり子の理性が、彼女の背中を強く押した。
「マサト」
かすれた声で、のり子は彼の名前を呼んだ。
マサトが驚いたように肩を揺らし、ゆっくりとのり子の方を振り返った。
夕陽を背に浴びた彼の輪郭が、オレンジ色に光っている。マサトはのり子の顔を見つめ、少し躊躇うように、けれど意を決したように、小さな声を絞り出した。
「手紙、読んでくれた? ……青い封筒の手紙」
「え……?」
のり子は息を呑んだ。一瞬、頭の中が真っ白になる。
青い封筒?
そんなもの、もらって――。
そこまで考えて、のり子の脳裏に、昨日の夜の光景がフラッシュバックした。
アパートのポスト。チラシに混ざっていた、青色の封筒。すこし、汚れて、古びている青色の封筒。
――あ。
心臓が、痛いほどに脈打つ。
あの手紙だ。
何十年の時を経て、昨日の夜、大人になったのり子の手元に届いた、マサトの筆跡で書かれたあのラブレター。
長い年月の中で色褪せて汚れてしまっていたけれど、あれは元々、瑞々しい「青い封筒」だったのだ。
「読んだよ」と、伝えたかった。
「昨日の夜、ちゃんと読んだよ。君が遠くから私を見ていてくれたこと、頑張ってるねって言ってくれたこと、全部届いたよ。そして、伝えたいことがあることも」と。
しかし、のり子の唇は小刻みに震えるだけで、どうしても音にならなかった。
喉の奥がカラカラに乾き、胸が引き裂かれるように波打つ。高校生の頃ののり子の身体が、あまりの緊張と、マサトへの強すぎる恋心によって、声帯を完全にロックしてしまっていた。
鼓動の爆音が、耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。
ぐるぐると混乱する頭の中で、のり子は必死に記憶の糸を繰り寄せた。
(待って……私、この場面を知っている……)
そうだ。高校生のあの日の放課後、全く同じことがあった。
カバンを忘れて教室に戻った私に、マサトが確かに聞いたのだ。
「手紙、読んでくれた? 青い封筒の手紙」と。
けれど、あの時ののり子は、そんな手紙なんてどこを探しても受け取っていなかった。
だから、マサトの問いかけに、戸惑うことしかできなかった。マサトはのり子の困惑した表情を見て、「あ、ううん、なんでもない。忘れて」と、傷ついたように寂しげに笑って、それきり手紙の話をしなくなってしまった。
あの日、手紙はのり子に届いていなかった。
二人の想いはすれ違い、そのまま卒業を迎えてしまったのだ。
目の前にいるのは、のり子が「手紙を読んでくれた」と信じて、不安そうに返事を待っている、あの日のマサトだ。
伝えなきゃいけない。
「届いてるよ」と。今ここで、目の前のマサトに伝えないと、二人の時間は永遠にすれ違ったままになってしまう。
のり子は、一度顔を下げた。そして、息を吸い込んで勇気を奮った。
胸がざわめくけど、口がカラカラだけど、手が震えるけど、マサトを見つめて言わなきゃ。
「読んだよ」って、今度こそ言わなきゃ。
そして、「読んだよ。わたしも、伝えたいことがある」
のり子は言えた。
のり子は、勇気を出して顔をあげた。
そこには、大人のマサトがいた。
「いや、のり子が、深刻な顔して屋上に一人で上がっていたって聞いたから、心配になって・・・
で、何を伝えたいの?」
いつの間にか、教室ではなくて、会社の屋上に戻ってきていた。
そして、目の前にマサトがいる。優しい笑顔で、私を見ている。しっかり、見ている。
のり子は、思わず・・・・
「マサト・・・・」
彼の名前を呼んだ瞬間、屋上を吹き抜ける風が、どこか懐かしい放課後の匂いを運んできた。
おしまい




