妻の治療費のために死体を漁った冒険者の末路
朝の光は、いつだって残酷だ。
優しすぎるから、嘘を照らしてしまう。
アレンは、木造の小さな家の扉をそっと開けた。
外の空気は冷たく、湿った土の匂いがした。夜明け前に降った雨の名残だ。
庭の中央に置かれた古い椅子に、リシアが腰掛けている。
薄い金色の髪が、光を受けて揺れていた。
病気が治ってから、彼女は朝の庭に出るのが日課になった。
以前は寝台から起き上がることすらできなかったのに、今はこうして外の空気を吸っている。
「アレン、おはよう」
リシアが振り返る。
その笑顔は、アレンが何度も救おうとした“理由”そのものだった。
「おはよう、リシア。今日も早いね」
「うん。外に出られるのが嬉しくて……つい」
アレンは微笑み返す。
だが胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
――本当は、こんな笑顔を見る資格なんてない。
リシアは椅子から立ち上がり、アレンの顔を覗き込んだ。
「ねえ、最近……疲れてる?」
「え?」
「顔色が悪いよ。夜、眠れてないんじゃない?」
アレンは一瞬だけ視線を逸らした。
眠れていないのは事実だ。
夜になると、あの“最初の夜”が脳裏に浮かぶ。
暗い森、倒れた冒険者、血の匂い。
震える手で財布を奪った瞬間の、あの感触。
だが、そんなことを言えるはずがない。
「大丈夫だよ。依頼が続いてるだけさ」
「……無理しないでね。あなたが倒れたら、私……」
リシアは言葉を濁した。
アレンはその続きを知っている。
“私、また迷惑をかけちゃうから”
そう言うつもりだったのだ。
アレンはそっとリシアの肩に手を置いた。
「心配いらない。君はもう元気だろ?」
「うん……そうだね」
リシアは微笑む。
その笑顔は、アレンの胸を刺す。
治療費のために、アレンは一線を越えた。
冒険者の死体から金品を奪うという、ギルド最大の禁忌。
仲間の尊厳を踏みにじる行為。
だが、その金でリシアは救われた。
だからアレンは、あの夜の罪を“必要な犠牲”だと自分に言い聞かせた。
――本当は違う。
――あれは、ただの弱さだ。
「アレン」
「ん?」
「今日の夕食、あなたの好きな煮込みにしようと思って」
「……楽しみにしてるよ」
アレンは笑った。
だがその笑顔は、どこか引きつっていた。
リシアは気づかない。
いや、気づかないふりをしているのかもしれない。
アレンが最近、家に帰るたびにどこか遠い目をしていること。
夜中に何度も目を覚ましていること。
そして――
アレンの手が、時々、何かを掴むように震えていること。
リシアは優しい。
優しすぎる。
だからアレンは、余計に逃げられない。
「じゃあ、行ってくるよ」
「気をつけてね。……本当に、無理しないで」
アレンは頷き、家を出た。
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
朝の光は明るい。
だがアレンの影は、長く、濃く伸びていた。
――今日こそ、やめる。
そう心の中で呟く。
だがその言葉は、何度目だろう。
アレンは歩きながら、拳を握りしめた。
手のひらには、まだ“あの夜の感触”が残っている気がした。
リシアの笑顔が胸を刺す。
その痛みを抱えたまま、アレンはギルドへ向かう道を歩き続けた。
静かな朝は、何も知らない。
アレンが今日もまた、嘘を抱えて生きていることを。
リシアが倒れたのは、ちょうど一年前の冬だった。
雪が降り続き、街道が閉ざされ、薬の運搬が遅れた時期だ。
アレンはその日、ギルドの受付で医師の診断書を握りしめていた。
紙は湿って、手汗でよれていた。
「……治療費、こんなにかかるのか」
声が震えた。
受付嬢は気まずそうに目を伏せた。
「リシアさんの病は、魔力の流れが乱れるタイプです。治療には専門の魔術師が必要で……どうしても高額になります」
アレンは唇を噛んだ。
Cランク冒険者の稼ぎでは到底足りない。
貯金はすでに底をつき、借金も限界だった。
「……なんとか、します」
そう言うしかなかった。
家に帰ると、リシアは寝台に横たわっていた。
呼吸は浅く、頬はこけ、指先は冷たい。
アレンが手を握ると、リシアは薄く目を開けた。
「……おかえり、アレン」
「ただいま。今日は……少し、依頼が長引いてね」
嘘だった。
依頼は午前中に終わっていた。
その後はずっと、治療費のことを考えて街を彷徨っていた。
「ごめんね……私のせいで、働きづめで」
「違うよ。君のためなら、いくらでも働くさ」
アレンは笑った。
だが胸の奥は、冷たい水に沈められたように重かった。
――このままじゃ、リシアは死ぬ。
その夜、アレンは眠れなかった。
寝台の隣で、リシアが弱々しく呼吸している。
その音が、アレンの心を締めつけた。
外が白み始めた頃、アレンは決意した。
依頼を増やす。
危険な仕事でも受ける。
なんでもする。
そう思っていた。
だが、その“なんでも”が、まさかあんな形になるとは思っていなかった。
その日、アレンは森の奥で魔物退治の依頼をこなしていた。
帰り道、ふと、血の匂いがした。
嫌な予感がして、茂みをかき分ける。
そこに――冒険者の死体があった。
若い男だった。
胸を魔物に貫かれ、装備は壊れ、剣は折れている。
まだ温かい。
アレンは息を呑んだ。
ギルドの規定が頭をよぎる。
「冒険者の遺体には触れるな。尊厳を守れ」
「金品の持ち去りは厳罰。冒険者の誇りを汚す行為」
アレンは膝をつき、手を合わせた。
仲間ではないが、同じ冒険者だ。
死者への敬意は当然だ。
――そのはずだった。
だが、視界の端に、革袋が見えた。
腰に結ばれた財布。
中には金貨が入っているだろう。
アレンの喉が、ひゅっと鳴った。
その金があれば、リシアの治療費の一部になる。
いや、もしかしたら――
今日、治療を受けさせられるかもしれない。
アレンは震える手で顔を覆った。
「……やめろ。やめろ、アレン。そんなこと……」
だが、リシアの顔が浮かんだ。
弱々しく笑い、謝り続ける妻の姿。
アレンは、ゆっくりと手を伸ばした。
革袋に触れた瞬間、心臓が跳ねた。
冷たい汗が背中を流れる。
死体の手が動いたような錯覚に、思わず息を呑んだ。
「……ごめん。ごめん……」
アレンは財布を引き抜いた。
その瞬間、何かが壊れる音がした気がした。
自分の中の、何か大事なものが。
走って森を出た。
息が切れ、視界が滲む。
だが財布を握る手だけは、離さなかった。
その金で、リシアは治療を受けた。
魔術師の治療は成功し、リシアは奇跡のように回復した。
アレンは泣いた。
リシアも泣いた。
抱き合って、何度も感謝を言い合った。
その夜、アレンは思った。
――これで終わりだ。
――もう二度と、あんなことはしない。
そう誓った。
だが、胸の奥に、別の声があった。
「こんなに簡単に……金が手に入るのか」
その声は、静かに、確実に、アレンの心に根を張った。
リシアが回復してから、季節がひとつ巡った。
春の風は柔らかく、家の周りには小さな花が咲き始めている。
アレンはその景色を見るたびに、胸の奥がざわついた。
――本来なら、これで終わりだったはずだ。
リシアは元気になり、笑い、料理を作り、庭に出て、アレンを迎える。
アレンはその笑顔を見るたびに、救われたと思った。
あの夜の罪は、必要な犠牲だったのだと。
だが、心の奥底で別の感情が蠢いていた。
「あの金がなかったら、リシアは助からなかった」
「あれは正しい選択だった」
「なら、もう一度くらい……」
その“もう一度”が、アレンの中で形を持ち始めた。
最初に再び死体を見つけたのは、偶然だった。
森の浅い場所で、魔物に襲われた冒険者が倒れていた。
アレンは息を呑んだ。
――まただ。
胸がざわつく。
手が汗ばむ。
視線が、腰の革袋に吸い寄せられる。
「……違う。これは、もう必要ない」
アレンは自分に言い聞かせた。
リシアはもう元気だ。
治療費は払った。
借金も返した。
それでも、足が動かなかった。
死体の前から離れられない。
革袋が、アレンを見ているようだった。
――あの時と同じだ。
――あの時と同じ“簡単さ”が、ここにある。
アレンは震える手で革袋を掴んだ。
中には銀貨が数枚。
大金ではない。
だが、心臓が跳ねた。
その瞬間、アレンは悟った。
自分は、もうやめられない。
それから、アレンは依頼の帰りに“つい”周囲を見回すようになった。
森の奥、崖下、川沿い――
冒険者が倒れやすい場所を、無意識に探してしまう。
見つからない日は、胸がざわついた。
見つけた日は、胸が高鳴った。
罪悪感は、薄れていった。
慣れが勝った。
そして、言い訳が増えた。
「これはギルドの落ち度だ」
「どうせ誰も回収に来ない」
「死んだ人間に金は必要ない」
アレンは自分の心が変わっていくのを感じていた。
だが、止められなかった。
家に帰ると、リシアが笑顔で迎えてくれる。
「おかえり、アレン。今日は早かったね」
「……ああ、まあね」
アレンは笑う。
だがその笑顔は、どこか空虚だった。
リシアは気づかない。
いや、気づいているのかもしれない。
アレンの手が時々震えていること。
視線がどこか遠くを見ていること。
夜中にうなされていること。
だがリシアは、何も言わない。
アレンを信じているから。
信じたいから。
「ねえ、アレン」
「ん?」
「最近……あなた、どこか苦しそう」
アレンは一瞬、呼吸を止めた。
だがすぐに笑ってみせた。
「大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけさ」
「……そう」
リシアはそれ以上聞かなかった。
アレンは胸が痛んだ。
だが、その痛みすら、もう以前ほど強くはなかった。
罪悪感は、薄れる。
人間は、慣れる。
どんな悪にも。
ある夜、アレンは寝台の上で目を覚ました。
喉が渇き、胸がざわつく。
外は静かで、風の音だけが聞こえる。
アレンは気づいた。
自分は、死体を探すことに“快感”を覚えている。
その事実に、背筋が冷えた。
だが同時に、心の奥で別の声が囁いた。
「明日も探せばいい。最後の一回でいい」
アレンは目を閉じた。
リシアの寝息が隣から聞こえる。
その音が、かつては救いだった。
今は、ただの重荷だった。
――もう、戻れない。
アレンは薄く笑った。
その笑みは、誰にも見られないまま闇に溶けた。
その日、アレンは朝から胸がざわついていた。
理由は分かっていた。
昨夜、寝台の上で自分に言い聞かせた言葉が、まだ耳の奥に残っている。
――明日こそ、最後にしよう。
その“最後”が、何度目なのかはもう数えられなかった。
だが今日は違う。
胸の奥に、妙な焦燥があった。
リシアは朝食を作りながら、アレンの背中を見つめていた。
「今日は……なんだか、行きたくなさそうだね」
「そんなことないさ」
「でも、顔が……」
アレンは笑ってみせた。
その笑顔は、もう自分でも偽物だと分かっていた。
「大丈夫。今日は軽い依頼だよ」
「……気をつけてね」
リシアはそれ以上何も言わなかった。
アレンは家を出ると、深く息を吸った。
胸の奥に沈んだ黒い塊が、呼吸のたびに重く揺れる。
――今日で終わりだ。
――これが最後だ。
その言葉を呟きながら、アレンは森の奥へと向かった。
森の入口は、いつもと変わらない。
鳥の声、風の音、湿った土の匂い。
だがアレンの足は、自然と“あの場所”へ向かっていた。
危険地帯――
かつて仲間と共に踏み込み、二度と来るまいと誓った場所。
その時の記憶が蘇る。
仲間の叫び、魔物の咆哮、血の匂い。
アレンは生き残ったが、仲間の一人は帰らなかった。
あの時、アレンは言った。
「もう二度と、こんな場所には来ない」
仲間たちも頷いた。
だが今、アレンはその誓いを破ろうとしている。
――金のために。
足が震えた。
だが止まらなかった。
森の奥は薄暗く、木々が密集している。
風が通らず、空気が重い。
アレンは剣の柄を握りしめ、慎重に進んだ。
やがて、視界の先に“それ”が見えた。
冒険者の死体。
鎧は砕け、腕は不自然な方向に折れ、血は乾いて黒くなっている。
アレンの心臓が跳ねた。
――あった。
胸の奥で、何かが熱くなる。
罪悪感ではない。
恐怖でもない。
欲だ。
アレンはゆっくりと近づいた。
死体の腰には、革袋が結ばれている。
中には金貨が入っているだろう。
アレンは膝をつき、手を伸ばした。
その瞬間――
背後で、枝が折れる音がした。
アレンは反射的に振り返った。
森の奥、暗闇の中で、何かが動いた。
魔物だ。
巨大な影が、木々の間から姿を現した。
黒い毛並み、鋭い牙、赤く光る目。
アレンは息を呑んだ。
「……嘘だろ」
逃げなければ。
そう思った瞬間、足がもつれた。
倒れた拍子に、死体の腕がアレンの服を掴んだように感じた。
冷たい指が、アレンを引き止める。
「やめろ……離せ……!」
錯覚だと分かっている。
だがアレンは振り払えなかった。
魔物が咆哮した。
地面が震え、鳥たちが一斉に飛び立つ。
アレンは立ち上がろうとした。
だが足が震えて動かない。
視界の端で、革袋が揺れた。
金貨の重みが、アレンを縛りつける。
――これが最後だ。
――最後の一回だったはずだ。
魔物の影が迫る。
アレンは剣を抜いた。
だが手が震えている。
握力が抜け、剣がわずかに傾いた。
その瞬間、アレンの脳裏に浮かんだのは――
リシアの笑顔ではなかった。
最初に奪った冒険者の顔。
血に濡れた瞳が、アレンを見つめていた。
「……ごめん……」
アレンの呟きは、魔物の咆哮にかき消された。
影が覆いかぶさり、世界が暗く染まった。
アレンの遺体が街へ運ばれたのは、翌日の夕方だった。
ギルドの職員が二人、重い足取りでリシアの家を訪れた。
扉を開けたリシアは、最初、状況を理解できなかった。
職員の表情、沈黙、そして差し出された布に包まれた剣。
それらが意味するものを、頭が拒んだ。
「……アレン、が……?」
声が震えた。
職員は深く頭を下げた。
「申し訳ありません。アレンさんは……依頼中に魔物の襲撃を受け……」
リシアの膝が崩れた。
床に手をつき、呼吸が乱れ、視界が揺れる。
「嘘……嘘……そんな……」
声はかすれ、涙が頬を伝った。
職員は言葉を選びながら続けた。
「アレンさんは……最後まで勇敢に戦われました。
仲間を守り、任務を果たし……立派な冒険者でした」
それは嘘だった。
アレンは一人で危険地帯に入り、死体を漁ろうとして殺された。
だがギルドはそれを言わない。
冒険者の尊厳を守るため。
そして――リシアを守るため。
リシアは泣き続けた。
職員は静かに頭を下げ、家を後にした。
扉が閉まる音が、やけに遠く聞こえた。
夜。
リシアはアレンの遺品を机に並べていた。
剣、破れた手袋、古いマント。
そして――小さな革袋。
リシアはそれを手に取った。
中には金貨が数枚入っていた。
アレンが最後に持ち帰ったもの。
「……アレン……」
リシアは金貨を胸に抱きしめた。
涙がぽたりと落ちる。
「あなた……最後まで、私のために……」
リシアはそう信じていた。
アレンが危険な依頼に行ったのも、無理をしたのも、
すべて自分のためだと。
真実は違う。
アレンは自分の欲のために危険地帯へ行き、
そして死んだ。
だがリシアは知らない。
知ることはない。
リシアは金貨を両手で包み込み、
静かに目を閉じた。
「アレン……ありがとう。
あなたがいてくれたから、私は……生きてこられたよ」
その声は、もう誰にも届かない。
アレンのいない家に、静かに沈んでいく。
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
その音は、まるで誰かが泣いているようだった。
リシアは金貨を胸に抱いたまま、
ゆっくりと寝台に横たわった。
涙は止まらなかった。
だがその涙は、アレンの罪を知らないまま流れる、
ただの愛の涙だった。
知らないままの愛。
知られないままの罪。
その二つだけが、静かな家に残った。




