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妻の治療費のために死体を漁った冒険者の末路

作者: アポロ
掲載日:2026/04/27

 朝の光は、いつだって残酷だ。

 優しすぎるから、嘘を照らしてしまう。


 アレンは、木造の小さな家の扉をそっと開けた。

 外の空気は冷たく、湿った土の匂いがした。夜明け前に降った雨の名残だ。

 庭の中央に置かれた古い椅子に、リシアが腰掛けている。


 薄い金色の髪が、光を受けて揺れていた。

 病気が治ってから、彼女は朝の庭に出るのが日課になった。

 以前は寝台から起き上がることすらできなかったのに、今はこうして外の空気を吸っている。


「アレン、おはよう」

 リシアが振り返る。

 その笑顔は、アレンが何度も救おうとした“理由”そのものだった。


「おはよう、リシア。今日も早いね」

「うん。外に出られるのが嬉しくて……つい」


 アレンは微笑み返す。

 だが胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


 ――本当は、こんな笑顔を見る資格なんてない。


 リシアは椅子から立ち上がり、アレンの顔を覗き込んだ。

「ねえ、最近……疲れてる?」

「え?」

「顔色が悪いよ。夜、眠れてないんじゃない?」


 アレンは一瞬だけ視線を逸らした。

 眠れていないのは事実だ。

 夜になると、あの“最初の夜”が脳裏に浮かぶ。

 暗い森、倒れた冒険者、血の匂い。

 震える手で財布を奪った瞬間の、あの感触。


 だが、そんなことを言えるはずがない。


「大丈夫だよ。依頼が続いてるだけさ」

「……無理しないでね。あなたが倒れたら、私……」


 リシアは言葉を濁した。

 アレンはその続きを知っている。

 “私、また迷惑をかけちゃうから”

 そう言うつもりだったのだ。


 アレンはそっとリシアの肩に手を置いた。

「心配いらない。君はもう元気だろ?」

「うん……そうだね」


 リシアは微笑む。

 その笑顔は、アレンの胸を刺す。

 治療費のために、アレンは一線を越えた。

 冒険者の死体から金品を奪うという、ギルド最大の禁忌。

 仲間の尊厳を踏みにじる行為。


 だが、その金でリシアは救われた。

 だからアレンは、あの夜の罪を“必要な犠牲”だと自分に言い聞かせた。


 ――本当は違う。

 ――あれは、ただの弱さだ。


「アレン」

「ん?」

「今日の夕食、あなたの好きな煮込みにしようと思って」

「……楽しみにしてるよ」


 アレンは笑った。

 だがその笑顔は、どこか引きつっていた。


 リシアは気づかない。

 いや、気づかないふりをしているのかもしれない。

 アレンが最近、家に帰るたびにどこか遠い目をしていること。

 夜中に何度も目を覚ましていること。

 そして――

 アレンの手が、時々、何かを掴むように震えていること。


 リシアは優しい。

 優しすぎる。

 だからアレンは、余計に逃げられない。


「じゃあ、行ってくるよ」

「気をつけてね。……本当に、無理しないで」


 アレンは頷き、家を出た。

 扉が閉まる音が、やけに重く響いた。


 朝の光は明るい。

 だがアレンの影は、長く、濃く伸びていた。


 ――今日こそ、やめる。

 そう心の中で呟く。

 だがその言葉は、何度目だろう。


 アレンは歩きながら、拳を握りしめた。

 手のひらには、まだ“あの夜の感触”が残っている気がした。


 リシアの笑顔が胸を刺す。

 その痛みを抱えたまま、アレンはギルドへ向かう道を歩き続けた。


 静かな朝は、何も知らない。

 アレンが今日もまた、嘘を抱えて生きていることを。


リシアが倒れたのは、ちょうど一年前の冬だった。

 雪が降り続き、街道が閉ざされ、薬の運搬が遅れた時期だ。


 アレンはその日、ギルドの受付で医師の診断書を握りしめていた。

 紙は湿って、手汗でよれていた。


「……治療費、こんなにかかるのか」

 声が震えた。


 受付嬢は気まずそうに目を伏せた。

「リシアさんの病は、魔力の流れが乱れるタイプです。治療には専門の魔術師が必要で……どうしても高額になります」


 アレンは唇を噛んだ。

 Cランク冒険者の稼ぎでは到底足りない。

 貯金はすでに底をつき、借金も限界だった。


「……なんとか、します」

 そう言うしかなかった。


 家に帰ると、リシアは寝台に横たわっていた。

 呼吸は浅く、頬はこけ、指先は冷たい。

 アレンが手を握ると、リシアは薄く目を開けた。


「……おかえり、アレン」

「ただいま。今日は……少し、依頼が長引いてね」


 嘘だった。

 依頼は午前中に終わっていた。

 その後はずっと、治療費のことを考えて街を彷徨っていた。


「ごめんね……私のせいで、働きづめで」

「違うよ。君のためなら、いくらでも働くさ」


 アレンは笑った。

 だが胸の奥は、冷たい水に沈められたように重かった。


 ――このままじゃ、リシアは死ぬ。


 その夜、アレンは眠れなかった。

 寝台の隣で、リシアが弱々しく呼吸している。

 その音が、アレンの心を締めつけた。


 外が白み始めた頃、アレンは決意した。

 依頼を増やす。

 危険な仕事でも受ける。

 なんでもする。


 そう思っていた。


 だが、その“なんでも”が、まさかあんな形になるとは思っていなかった。


 その日、アレンは森の奥で魔物退治の依頼をこなしていた。

 帰り道、ふと、血の匂いがした。


 嫌な予感がして、茂みをかき分ける。

 そこに――冒険者の死体があった。


 若い男だった。

 胸を魔物に貫かれ、装備は壊れ、剣は折れている。

 まだ温かい。


 アレンは息を呑んだ。

 ギルドの規定が頭をよぎる。


「冒険者の遺体には触れるな。尊厳を守れ」

「金品の持ち去りは厳罰。冒険者の誇りを汚す行為」


 アレンは膝をつき、手を合わせた。

 仲間ではないが、同じ冒険者だ。

 死者への敬意は当然だ。


 ――そのはずだった。


 だが、視界の端に、革袋が見えた。

 腰に結ばれた財布。

 中には金貨が入っているだろう。


 アレンの喉が、ひゅっと鳴った。


 その金があれば、リシアの治療費の一部になる。

 いや、もしかしたら――

 今日、治療を受けさせられるかもしれない。


 アレンは震える手で顔を覆った。

「……やめろ。やめろ、アレン。そんなこと……」


 だが、リシアの顔が浮かんだ。

 弱々しく笑い、謝り続ける妻の姿。


 アレンは、ゆっくりと手を伸ばした。


 革袋に触れた瞬間、心臓が跳ねた。

 冷たい汗が背中を流れる。

 死体の手が動いたような錯覚に、思わず息を呑んだ。


「……ごめん。ごめん……」


 アレンは財布を引き抜いた。

 その瞬間、何かが壊れる音がした気がした。

 自分の中の、何か大事なものが。


 走って森を出た。

 息が切れ、視界が滲む。

 だが財布を握る手だけは、離さなかった。


 その金で、リシアは治療を受けた。

 魔術師の治療は成功し、リシアは奇跡のように回復した。


 アレンは泣いた。

 リシアも泣いた。

 抱き合って、何度も感謝を言い合った。


 その夜、アレンは思った。


 ――これで終わりだ。

 ――もう二度と、あんなことはしない。


 そう誓った。


 だが、胸の奥に、別の声があった。


 「こんなに簡単に……金が手に入るのか」


 その声は、静かに、確実に、アレンの心に根を張った。


リシアが回復してから、季節がひとつ巡った。

 春の風は柔らかく、家の周りには小さな花が咲き始めている。

 アレンはその景色を見るたびに、胸の奥がざわついた。


 ――本来なら、これで終わりだったはずだ。


 リシアは元気になり、笑い、料理を作り、庭に出て、アレンを迎える。

 アレンはその笑顔を見るたびに、救われたと思った。

 あの夜の罪は、必要な犠牲だったのだと。


 だが、心の奥底で別の感情が蠢いていた。


 「あの金がなかったら、リシアは助からなかった」

 「あれは正しい選択だった」

 「なら、もう一度くらい……」


 その“もう一度”が、アレンの中で形を持ち始めた。


 最初に再び死体を見つけたのは、偶然だった。

 森の浅い場所で、魔物に襲われた冒険者が倒れていた。

 アレンは息を呑んだ。


 ――まただ。


 胸がざわつく。

 手が汗ばむ。

 視線が、腰の革袋に吸い寄せられる。


「……違う。これは、もう必要ない」


 アレンは自分に言い聞かせた。

 リシアはもう元気だ。

 治療費は払った。

 借金も返した。


 それでも、足が動かなかった。

 死体の前から離れられない。


 革袋が、アレンを見ているようだった。


 ――あの時と同じだ。

 ――あの時と同じ“簡単さ”が、ここにある。


 アレンは震える手で革袋を掴んだ。

 中には銀貨が数枚。

 大金ではない。

 だが、心臓が跳ねた。


 その瞬間、アレンは悟った。


 自分は、もうやめられない。


 それから、アレンは依頼の帰りに“つい”周囲を見回すようになった。

 森の奥、崖下、川沿い――

 冒険者が倒れやすい場所を、無意識に探してしまう。


 見つからない日は、胸がざわついた。

 見つけた日は、胸が高鳴った。


 罪悪感は、薄れていった。

 慣れが勝った。

 そして、言い訳が増えた。


「これはギルドの落ち度だ」

「どうせ誰も回収に来ない」

「死んだ人間に金は必要ない」


 アレンは自分の心が変わっていくのを感じていた。

 だが、止められなかった。


 家に帰ると、リシアが笑顔で迎えてくれる。


「おかえり、アレン。今日は早かったね」

「……ああ、まあね」


 アレンは笑う。

 だがその笑顔は、どこか空虚だった。


 リシアは気づかない。

 いや、気づいているのかもしれない。

 アレンの手が時々震えていること。

 視線がどこか遠くを見ていること。

 夜中にうなされていること。


 だがリシアは、何も言わない。

 アレンを信じているから。

 信じたいから。


「ねえ、アレン」

「ん?」

「最近……あなた、どこか苦しそう」


 アレンは一瞬、呼吸を止めた。

 だがすぐに笑ってみせた。


「大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけさ」

「……そう」


 リシアはそれ以上聞かなかった。

 アレンは胸が痛んだ。

 だが、その痛みすら、もう以前ほど強くはなかった。


 罪悪感は、薄れる。

 人間は、慣れる。

 どんな悪にも。


 ある夜、アレンは寝台の上で目を覚ました。

 喉が渇き、胸がざわつく。

 外は静かで、風の音だけが聞こえる。


 アレンは気づいた。


 自分は、死体を探すことに“快感”を覚えている。


 その事実に、背筋が冷えた。

 だが同時に、心の奥で別の声が囁いた。


「明日も探せばいい。最後の一回でいい」


 アレンは目を閉じた。

 リシアの寝息が隣から聞こえる。

 その音が、かつては救いだった。

 今は、ただの重荷だった。


 ――もう、戻れない。


 アレンは薄く笑った。

 その笑みは、誰にも見られないまま闇に溶けた。


その日、アレンは朝から胸がざわついていた。

 理由は分かっていた。

 昨夜、寝台の上で自分に言い聞かせた言葉が、まだ耳の奥に残っている。


 ――明日こそ、最後にしよう。


 その“最後”が、何度目なのかはもう数えられなかった。

 だが今日は違う。

 胸の奥に、妙な焦燥があった。


 リシアは朝食を作りながら、アレンの背中を見つめていた。

「今日は……なんだか、行きたくなさそうだね」

「そんなことないさ」

「でも、顔が……」


 アレンは笑ってみせた。

 その笑顔は、もう自分でも偽物だと分かっていた。


「大丈夫。今日は軽い依頼だよ」

「……気をつけてね」


 リシアはそれ以上何も言わなかった。

 アレンは家を出ると、深く息を吸った。

 胸の奥に沈んだ黒い塊が、呼吸のたびに重く揺れる。


 ――今日で終わりだ。

 ――これが最後だ。


 その言葉を呟きながら、アレンは森の奥へと向かった。


 森の入口は、いつもと変わらない。

 鳥の声、風の音、湿った土の匂い。

 だがアレンの足は、自然と“あの場所”へ向かっていた。


 危険地帯――

 かつて仲間と共に踏み込み、二度と来るまいと誓った場所。


 その時の記憶が蘇る。

 仲間の叫び、魔物の咆哮、血の匂い。

 アレンは生き残ったが、仲間の一人は帰らなかった。


 あの時、アレンは言った。

「もう二度と、こんな場所には来ない」

 仲間たちも頷いた。


 だが今、アレンはその誓いを破ろうとしている。


 ――金のために。


 足が震えた。

 だが止まらなかった。


 森の奥は薄暗く、木々が密集している。

 風が通らず、空気が重い。

 アレンは剣の柄を握りしめ、慎重に進んだ。


 やがて、視界の先に“それ”が見えた。


 冒険者の死体。

 鎧は砕け、腕は不自然な方向に折れ、血は乾いて黒くなっている。


 アレンの心臓が跳ねた。


 ――あった。


 胸の奥で、何かが熱くなる。

 罪悪感ではない。

 恐怖でもない。


 欲だ。


 アレンはゆっくりと近づいた。

 死体の腰には、革袋が結ばれている。

 中には金貨が入っているだろう。


 アレンは膝をつき、手を伸ばした。


 その瞬間――

 背後で、枝が折れる音がした。


 アレンは反射的に振り返った。

 森の奥、暗闇の中で、何かが動いた。


 魔物だ。


 巨大な影が、木々の間から姿を現した。

 黒い毛並み、鋭い牙、赤く光る目。

 アレンは息を呑んだ。


「……嘘だろ」


 逃げなければ。

 そう思った瞬間、足がもつれた。


 倒れた拍子に、死体の腕がアレンの服を掴んだように感じた。

 冷たい指が、アレンを引き止める。


「やめろ……離せ……!」


 錯覚だと分かっている。

 だがアレンは振り払えなかった。


 魔物が咆哮した。

 地面が震え、鳥たちが一斉に飛び立つ。


 アレンは立ち上がろうとした。

 だが足が震えて動かない。


 視界の端で、革袋が揺れた。

 金貨の重みが、アレンを縛りつける。


 ――これが最後だ。

 ――最後の一回だったはずだ。


 魔物の影が迫る。

 アレンは剣を抜いた。

 だが手が震えている。

 握力が抜け、剣がわずかに傾いた。


 その瞬間、アレンの脳裏に浮かんだのは――

 リシアの笑顔ではなかった。


 最初に奪った冒険者の顔。


 血に濡れた瞳が、アレンを見つめていた。


「……ごめん……」


 アレンの呟きは、魔物の咆哮にかき消された。


 影が覆いかぶさり、世界が暗く染まった。


アレンの遺体が街へ運ばれたのは、翌日の夕方だった。

 ギルドの職員が二人、重い足取りでリシアの家を訪れた。


 扉を開けたリシアは、最初、状況を理解できなかった。

 職員の表情、沈黙、そして差し出された布に包まれた剣。

 それらが意味するものを、頭が拒んだ。


「……アレン、が……?」

 声が震えた。


 職員は深く頭を下げた。

「申し訳ありません。アレンさんは……依頼中に魔物の襲撃を受け……」


 リシアの膝が崩れた。

 床に手をつき、呼吸が乱れ、視界が揺れる。


「嘘……嘘……そんな……」

 声はかすれ、涙が頬を伝った。


 職員は言葉を選びながら続けた。

「アレンさんは……最後まで勇敢に戦われました。

 仲間を守り、任務を果たし……立派な冒険者でした」


 それは嘘だった。

 アレンは一人で危険地帯に入り、死体を漁ろうとして殺された。

 だがギルドはそれを言わない。

 冒険者の尊厳を守るため。

 そして――リシアを守るため。


 リシアは泣き続けた。

 職員は静かに頭を下げ、家を後にした。


 扉が閉まる音が、やけに遠く聞こえた。


 夜。

 リシアはアレンの遺品を机に並べていた。


 剣、破れた手袋、古いマント。

 そして――小さな革袋。


 リシアはそれを手に取った。

 中には金貨が数枚入っていた。

 アレンが最後に持ち帰ったもの。


「……アレン……」


 リシアは金貨を胸に抱きしめた。

 涙がぽたりと落ちる。


「あなた……最後まで、私のために……」


 リシアはそう信じていた。

 アレンが危険な依頼に行ったのも、無理をしたのも、

 すべて自分のためだと。


 真実は違う。

 アレンは自分の欲のために危険地帯へ行き、

 そして死んだ。


 だがリシアは知らない。

 知ることはない。


 リシアは金貨を両手で包み込み、

 静かに目を閉じた。


「アレン……ありがとう。

 あなたがいてくれたから、私は……生きてこられたよ」


 その声は、もう誰にも届かない。

 アレンのいない家に、静かに沈んでいく。


 窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。

 その音は、まるで誰かが泣いているようだった。


 リシアは金貨を胸に抱いたまま、

 ゆっくりと寝台に横たわった。


 涙は止まらなかった。

 だがその涙は、アレンの罪を知らないまま流れる、

 ただの愛の涙だった。


 知らないままの愛。

 知られないままの罪。


 その二つだけが、静かな家に残った。

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