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いよいよ高等部への進学ーー。
『暁の乙女と時空の虚無神〜革命前夜〜』
のゲームが始まる時が来た。
ゲーム内では死んでる筈のクレーバーン公爵令息アラン・チャニングがピンピンしていて、未だ婚約者を定めていない状態で在籍している。
そしてアランは異母妹が入学してくるなどという話を一切していない。
遠回しに
「遠縁の人とか、血縁者が入学してきたりとかしないの?」
と訊いてはみたが
「優秀な親戚が二学年歳上にいたけど、卒業したから、血縁者はもう居ない筈だけど…」
と首を傾げられた。
アランはどうやら父親から異母妹の事を聞いていない様子…。
(もしかしてヒロインのクラリッサは入学して来ないかも知れない…)
と内心で
「ゲームのシナリオが破綻している可能性」
を期待したのだが…
高等部の入学式の日にクラリッサの姿を見つけてしまい
(…シナリオ補正が入ってシナリオ通りに進むフラグもあるという事なのかも)
と思った。
と同時にーー
この世界の「現象進行のシステム」に着目する観点が
不意にレベッカの中に概念として生じた。
そうーー
悪役の破滅へと繋がる一連の運命を織物に擬えるなら
フラグと呼ばれるモノは織物を構成する糸に擬え得る。
「一連の感情と行動の帰結である運命」
「沢山の縦糸と横糸の交差によって成り立つ織物」
フラグを折るという行為は
「織物の中から不要な糸を抜き取る」
ようなものだったのだ、とふと気付く。
本来のシナリオの側からするなら
レベッカの中に宿る五月の存在はバグ。
逆にレベッカの側からするなら
「破滅エンドが多すぎるシナリオ」
の方こそがバグだ。
この世界の現象進行が
「悲劇を少しでも減らせた社会」
へと変更される事の方が
レベッカにとって
「この世界の在るべき姿」
なのだという気がしている。
もちろんゲームはフィクション。
その中で描かれる不幸も消費者が消費するために存在している。
プレイヤーは
「自分さえ幸せなら良い」
という観点に流されて
シナリオに組み込まれた不幸に対して
「本気で変えたい」
と思う事はほぼないだろう。
だけど実際にーー
ゲームの世界の中に入り込んで
「人生」
を生きてみると…
「設定上で死んでた筈だから設定通りになるように死なせて良い」
などとは思えないものだ。
だからこそ本気で
「この世界の在るべき姿」
を模索できる…。
(ゲームプレイヤーはシナリオ内の不幸なキャラに同情はするのだろうけど、自分の体験ではない虚構の不幸に対する同情なんて所詮は軽いものなんだよね…)
と、今更ながら感じる。
(私は私にとっての「この世界の在るべき姿」を実現させていけば良いんだ。迷いたくない…)
そう決意する。
(ゲームプレイ中にヒロインに感情移入し過ぎたプレイヤーが転生してたら、ひたすらヒロインの幸せを実現したいと思うのかも知れないけど…。私はヒロインの幸せより、自分と多くの人達の安寧を望んでしまうんだよね…)
元々冷めた性格だった事もあり
レベッカの中の五月にはヒロインへの遠慮はない。
レベッカにとって
「悲劇の回避」
とは
ネット端末の不具合解消のために
インストール済みのソフトウェアを(ファイル名を)チェックし
不具合の元凶を割り出し削除するようなもの。
「何処かに削除すべき要因が存在していて、それを削除できれば不具合解消できる」
という困難克服策の存在を信じられる。
だから困難を克服したいと思えるのだ。
運命を変える乙女はーー
おそらく
「神から選ばれたから運命を変える力を与えられる」
のではない。
出来るならやってしまおう…。
出来るからやってしまう…。
当人の中ではただそれだけ。
それは嵐を蝶の羽ばたきに変えるように
運命を無難に変えてしまう。
聖者・聖女とは
「その時代のその社会に存在しているだけで凶相の無難化を引き起こす」
ような作用を持つ人達であり…
その社会の人材評価基準が
「存在性の作用を勘定に入れない」
ようなものであれば
その存在の有益性すら気付かれない
「ただ穏健なだけの人達」
である…。




