第一章: 今日のひとしずく
朝、澪はキッチンでコーヒーを淹れていた。
豆を量るとき、手元が少し震える。今日は重要な会議がある日だ。
発達障害の特性で、段取りを忘れやすく、予定外のことに弱い。
それでも、この仕事を続けている。
スマホのメモアプリには、昨日のうちに作った「会議準備リスト」がある。
「書類チェック→発言ポイント→水筒を持つ」
一つひとつチェックを入れていくと、心が少し軽くなった。
***
会社に着くと、同僚の明るい声が飛んできた。
「澪さん、あの資料すごく見やすかった!」
昨日、何度も修正して作った資料だ。
頭の中で整理するのは苦手でも、視覚的にまとめるのは得意。
それをちゃんと評価された瞬間、胸の奥で灯がともる。
会議中、想定外の質問が飛んできて、言葉が詰まった。
けれど、澪は深呼吸してから、こう言った。
「少し確認させていただいてもよろしいでしょうか」
——その一呼吸で、頭の中の混乱がほどけた。
***
帰り道、スーパーで夕飯の材料を買う。
人混みや音に疲れることもあるけれど、
「今日は鶏肉が安い」という小さな発見が、生活を守る喜びになる。
夜、ベッドで日記を書く。
「今日も働けた。会議も乗り越えた」
ページの端に、小さく丸を描く。それは、今日の達成のしるし。
——毎日はうまくいかないことだらけ。
けれど、その中にある「できた」のひとしずくを集めていけば、
きっと澪の人生は、静かに満ちていく。