3.聖女ゴルドの身体は、柔らかくできている
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ゆらゆら、ゆらゆら。
視界の先で、赤い靴が揺れている。
赤い靴と、白い足首。
ゆらゆら、ゆらゆらと。
風に揺れる赤い花のようだった。
あらゆる昆虫を誘う、赤い花。
──男を誘うというのは、こういうの、だよなぁ。
ふわふわ、ゆらゆら。
花のような赤い靴。
履いたまま。
温かい腕に包まれて。
雲の上を揺蕩うように。
やさしく運ばれる。
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少し冷たい波間に置かれて、目が覚めた。
「あー、……波間じゃなくて、シーツか」
ちいさなキャンドルがひとつ灯されている、暗い部屋を見回す。
大男の自分でも4人は寝れそうな広くて複雑な彫刻が施されている四柱式のベッド。
部屋自体も、こんなに大きなベッドが余裕で置けるほど広い。
壁一面にある窓は、ひとつひとつが大きい。窓の外はすでに真っ暗だ。星も見えない。
「それにしてもこの部屋は……どこかで見たことがあるような、無いような」
しばらくボーッと悩んで、思いついた。
「あぁ、アレクサンドル様の私室にそっくりだ!」
「俺の部屋だからな」
「ひっ!」
ビタン、とベッドのヘッドレストに身体を貼り付かせる。
声がした方をよくよく見れば、真っ暗だと思ったその場所には真っ黒いローブを身に纏ったアレクサンドル様が座っていた。
どうやら背中を向けていたので、闇と同化していて気が付かなかったようだ。
「うーむ。人の気配に気がつけなくなるとは……むっ?」
そうだった。声が、おかしいことに気が付いて、ようやく今の自分が、神の御業を手に入れるため、乙女の身体に生まれ変わらされているのだいうことを思い出した。
大きく息をはいて、肩に入っていた力を抜く。
別に、後悔など何もしていない。
生涯の主の命より重要なものなど、何もない。
「失礼しました。訓練で気絶して、主の部屋の寝床を奪うとは。我ながら失敗したものです」
そろりとベッドを降りようとすると、その横に赤い靴が揃えられているのに気が付いた。
──あー、あの赤い靴を履いた白い足首。
あれは自分だったのかと、苦笑した。
細くてちいさな足先に咲く、赤い花のようだった。
やわらかい。筋肉のついていない足。
この足が、元のレベルの筋肉を取り戻せるのは、いつになるだろう。
いきなり過去のゴルドが行なっていた訓練は無理だ。記憶に残る初期の訓練ですらクリアできる気はしない。
手のひらはちいさく、指は細く、手首も肩も首もなにもかもが華奢すぎる。
まずは、できることを探していくことから始めるべきか。
うんうんと唸っていると、アレクサンドルがゴルドのすぐ近くまで来ていた。
ベッドに座っているからだろうか。立っているアレクサンドルは、とても大きく見える。
「あぁ、失礼しました。部屋の主のベッドを占領してしま……え?」
立ち上がろうとしたところを、とん、と肩を押されてベッドに転がる。
やわらかなベッドに、寝ている間に梳かれた銀の髪が、広がった。
軽い身体は、ベッドの上で沈み込みことなく、跳ねた。
そういえば、髪だけではない。乗馬ズボンもぶ厚い木綿製のコルセットも身に着けていない。
跳ねた拍子に、ふるん、と自分の身体の脂肪が形を変えた。
『乙女の身体は、柔らかくできている』
いつかアレクサンドル様から教えられた言葉が、頭を過ぎった。
ちいさな手足。筋肉もない。
つ、と。首元へアレクサンドルの指が、滑った。
ビクンと体が、勝手に蠢く。
「ここ」
「え?」
「痣ができた。ここも、ここにも。まったくお前という奴は。俺がちゃんと教えてやったというのに」
「え、あ。いたっ、いっ、うえぇっあう、いたいっやめっやめてください、アレクサンドルさまっ」
ぐりぐりと、あちらこちらを太い指で押さえられていく度に悲鳴が口から洩れた。
やわらかな肌の上を、我慢できない鋭い痛みが走っていく。
「お……『乙女の身体は、柔らかくできている』?」
「ほお。ちゃんと覚えているじゃないか」
「この身体には筋肉が少なくて、どこもかしこも柔らかいのは分かりましたが」
それが、なぜこれほど身体中が青痣だらけになっていることと繋がるというのか。
「俺はどこにもぶつけたりしていません。それも、こんなに全身になんて。ありえない!」
「重い物を持つだけ、力を入れ過ぎるだけで、乙女の身体というのは痣になる。細く見せるためのコルセットが当たっていただけで痣ができていることもある。お前には木剣ですら、荷が重かったということだ。まぁ俺もつい楽しくなってしまったのだがな。……悪かった」
「え、なにか言いましたか?」
「(なんで聞いて無いんだ)……何も言ってない。これは、あの神の御業で治せないのか」
「無理です」
「そうなのか? あれか、自分には使えないとかそういう制約があるのか」
アレクサンドル様の問いに首を振る。そうじゃない。
「俺がこれまで生きてきたすべてを捧げて、アレクサンドル様のお命を救う術を貸していただきました。あんな奇跡を起こせるのはあれ一回切りです。おまけとして、世界を護れる防護壁の技までオマケしていただいたのです。そもそも、たとえ使えたとしても、放っておいても治るような俺の痣に使うことなどできません」
あの戦闘で死んだ者はたくさんいた。
けれど、その者たちを生き返らせることができた訳ではない。
願いを叶えるには代償がいる。ゴルドのこれまでの努力と忠義だけでは、望むことすべてを賄うことはできない。
「ではお前のことは、俺が救おう」
ぐりぐりぐり。
「いだっ。いだだだだ、いだいです、それ。しみて痛い、やめてください」
慣れない謝罪を口にした羞恥を怒りに転換したアレクサンドルが、ベッド脇においておいた薬の蓋を開ける。
指にたっぷりととり、塗り込んでいく。
「うるさい。俺手ずから特効薬を塗ってやろうというのだ。大人しくしてろ」
「だってそれ痛いです」
内出血という正式な傷病名が表す通り、青痣というものは外から受けた衝撃により内部で細い血管が切れ、出血が内部組織へと広がった状態である。
切れた血管を収縮させ、出血を止めるだけでは、青い痣は消えない。洩れ広がってしまった血液を、体内で吸収させる必要がある。
つまり、血管を収縮させつつ、血行をよくしなければならないという相反する作用が必要となる。
この特効薬には、それができる。ただし、とても沁みるし痛い。
公式行事などで見える箇所に分かり易い怪我を負ったまま参加するなど、王族としての沽券に係わるとして開発されたらしいが、改良される度に、より沁みて痛い薬となった。効果は絶大なのだが。
「確かに染みるし痛い。だがこれは王族にだけ使用を許されている特別な薬なんだぞ。あっという間に怪我が治る。お前は有難く、俺からの奉仕を受け入れればいいんだ」
「え、そんな。王族用なんて。あっ! う、しみる。い、いたいぃぃ」
痛がるゴルドの身体に、あちこちに散らばる青黒い痣を探しては、特製の特効薬を塗り込んでいく。
勇気をだして口にした謝罪を聞いていなかったゴルドに、理不尽な怒りをぶつけているつもりだったが、あまりにも嫌がる様子に段々と楽しくなってしまったアレクサンドルは、より嫌がるように強めに薬を塗り込んでは、悲鳴を上げさせていった。
翌朝。
たったひと晩で、ゴルドの身体中に散らばっていた青黒い痣は、薄っすらと赤い痕が残るだけになっていた。
赤く残る痣を、ゴルドは見惚れるように撫で擦る。
「アレクサンドル様の、(特効薬)本当にすごい」
王族のみ使用が許されているという特別な薬を使って貰ったと口にしないようにという配慮のせいか、微妙に勘違いされても仕方がない言い回しになっていたことに、ゴルドは気が付いていなかった。
隣に控えていた侍女や近衛たちが、扉の向こうから聞こえてくる鈴を転がすような乙女の悲鳴や懇願に、どんな妄想を繰り広げていたのかも。
薄っすらと残っている赤い痣を、何と勘違いされているのかも。
なんにも、ゴルドは分かっていなかった。だが、分かっていなくて良かったのかもしれない。
自身の言動により、王城内にどんな噂が飛び交ってしまったのかなど。
『我が大王は、聖女に無慈悲で無体な行為をしていた』
『結局聖女はそんな無体を広くやわらかな心で受け入れて、翌朝うっとりとしていた』
『あんなに嫌がっていたのに。大王様すげえ!』
『中身がゴルドさまでも問題ナシ! さすが大王。そこに痺れる! 憧れる!!』
本当に。気が付かなくて良かったね、ゴルドちゃん。