4.愚兄と愚弟
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そこから。
アレクサンドルの視界には、まるで、世界が、時間が、ゆっくりと進むように見えた。
自分によく似た声に驚き、振り向いた先で、声だけでなく、顔つきまで似た男が、酷く顔をゆがめて手を振り上げている。
記憶にあるより瘦せている。それでも、アレクサンドルが、男を見間違うことなどない。
なぜ、この男がここにいるのか。
アレクサンドルがよく知っているこの男は、王族から廃されて、姓も名前も剥奪されて、遠い孤島で孤独に暮らしているはずであった。
自らの手でやせた畑を耕し、家畜の世話を実際に体験することで、生活の基盤が整わない生活というものをよくよく思い知ることになっていた。
その筈なのに。一体、何故……。
疑問が次々と頭に浮かんで消えては新しく浮かんでくる。何故、とばかり。
だからだろうか。頭上で光る刃を避けべきなのに、身体の動きが、遅れた。
刺される。──そう思ったにもかかわらず、痛みがこない。
目の前に、銀色の川が、広がってアレクサンドルの視界を遮る。
男の失敗を想定したが、違った。
「大丈夫ですか、アレクサンドル様」
男の手を捻り上げ、ヒールで背中を踏んで、にかっと笑う。その笑顔は自慢げに輝いていた。
「……ゴルド」
ふっ、と。ゴルドの名前を呟いた瞬間、アレクサンドルの時間の流れが元に戻った。
「本日二度目ですな。油断されすぎですぞ」
銀の髪をなびかせて、胸を張る。その顔が、ただただ眩しくて、アレクサンドルは目を瞬いた。
「あ、あぁ。すまない」
ほとほと己が情けなさすぎて、アレクサンドルは己に喝を入れるように首を振ると、ゴルドの細腕が締め上げていた男を代わって拘束した。
手際よく、肩から下げていた飾緒を外すと、男の両腕を後ろ手に縛り上げると、ついでとばかりに足首も結んで転がす。
「は、はなせ愚弟よっ。よくも高貴なるこのぼくちん様を」
「何故、此奴がここにいるのだという思いが先に来て、動きが止まってしまった」
「聞いてるのか。簒奪者の分際で聖女たまと結婚しようなんて、生意きぐえぇぇ! イタイイタイ高貴なるぼくちん様に、なんていうことを兄を敬痛てててて」
「うるさい。尋問は後回しにして、とりあえず猿轡もするか」
残念ながら飾緒は両手足を縛った際に使ってしまってもう無い。
アレクサンドルが周囲を見回す。すると先ほどのサシャの襲撃で破れてしまった花嫁のベールが落ちていた。それを拾い上げて、手でねじる。
「ふむ。暴漢に使うには高級素材すぎではあるが、足跡もついてしまってはベールに使う訳にもいかないしな。最後に、もうひと働きしてもらおう」
ぎゅっと引き延ばして強度も十分だと確かめているアレクサンドルのすぐ目の前に、きらめく銀の川が広がり、流れ落ちた。
「……仕込んでもらうべきは、武器ではなく、防具でしたなぁ」
「ゴルド?!」
「きゃああああ!!!」
「ぐえっ」
愚兄を投げ捨て、床に倒れこんだゴルドを抱き上げた。
首まで覆うレースの胸元に、銀のナイフが突き立てられていた。
真っ白い婚礼衣装が、赤く染まっていた。
「ゴルド、なんでお前」
「アレクサンドル様に、お怪我が無くてようございました。此度は、本懐を、……遂げられました」
──あなたの盾となって死ぬつもりでおりました。
あの日の言葉が、頭の中で響く。
ガンガンと。ガンガンと。耳鳴りなのか、悪寒なのか。
不快な衝撃が、アレクサンドルの身の内を走っていく。
「馬鹿な。ここは戦場ではないのだぞ。魔族を退けたお前が……。こんな。こんなにもちいさな短剣で、俺が殺されるとでも思ったか。お前の命を盾にしてまで……生きて。あぁあああぁぁぁ!!!」
それはつい先ほど、侍女であるサシャに宣言した言葉どおりのことだった。
『誰を犠牲にしようとも、俺はこの血を遺さねばならない』
「ごるどおねえさまぁぁぁぁぁあぁぁ!!!!」
「ごるどさまぁああぁぁ!」
ゴルドの名を呼び叫ぶ声が、アレクサンドルの耳に届く。
バルコニーの下で続く歓声も、いまだ止まない。
二人を祝福する声と、ゴルドを襲った禍を嘆く声が重なり、アレクサンドルの頭の中で木霊する。
「駄目だ。だめだ、ゴルド。お前こそ、血を残し繋がねばならぬ存在だというのに」
「あーもう! 愚弟にはあの女に殺されて貰って、ぼくちん様が聖女ちゃんと結婚するハズだったのに!」
「うるさい、死ね!」
「ぐぇっ」
思い切り、頭を踏みつけ黙らせる。
もし刺された箇所が、コルセットのある場所だったなら。こんな風に簡単に刃が刺さったりしなかったかもしれないのに。
もう少し下であったなら、ビジューで埋め尽くされたその切り返しで弾くこともできたかもしれない。
しかし、薄いレース一枚しかないその場所に、短剣が突き刺さっている。
無理に抜いたら血が噴き出してしまう。それがわかって、何もできない。
この場から動かすことすら危険と判断して、ただ叫んだ。
「医者を呼べ! 早く!」
そうして見つめていく間にも、じわじわと白絹へと広がっていく赤い染みとは逆に、薔薇色であった頬がその色を失っていく。
いつだって、どんな時であっても希望を失わずにきらきらと煌めいていた夜明け前の空のような濃い藍色に金色の星が飛ぶ美しい瞳が、真っ暗にな暗闇のようにいまは何も映さない。豪快に笑う花弁のような唇も、今は色を失い動かない。
ゴルド・ドルバガの命の灯が、消えようとしていた。
「駄目だ、ゴルド。お前が死ぬなんて許さない!」
「なんということだ! 簒奪者であるお前を侍女に殺させて、正統なるぼくちんが聖女を婚姻を交わし血を繋いでやろうと思ったのに。聖女を身代わりにするなんて最低だな、愚弟よ!」
無様にも海老反りに縄で縛られている長兄グレゴアールが気炎を吐く。
長兄グレゴアール。国で集めた税を再分配することなく着服し、私利私欲に使ったせいで地方の生活を蔑ろにした責を負い、王太子の身分だけでなく王族としての籍すら剥奪されて孤島に幽閉されていたはずの男だった。
此度の慶事でも、罪を償う時間が短すぎるということで恩赦の対象外となっていたはずなのに。
どこをどうしてあの島から抜け出してきたのか。
「どの口が言うのか」
ざわりと周囲から非難の声が上がり、冷たい視線を集めていることにも気が付かず、グレゴアールは只管、憎い弟アレクサンドルに向かって積年の恨みを晴らそうとばかりに憎まれ口を叩いた。
「女に庇われてのうのうと生き抜くなんて。やはりお前は悪魔だ! これで愚かな民にも、お前のような簒奪者には治世など無理だと分かったのではないか。はーっはっははーっはげはげほげはぐほっ」
げはげはと下品に笑って最後は咽ている長兄を、アレクサンドルは無視した。
今はこの男に構っている暇はない。それどころではないのだ。
だが、むかつくことにアレクサンドルの身体に流れる血に関しては、この凶行を冒した愚兄でも繋いでいくことができる。
民のための血税を横領し私利私欲で使い果たしていたせいで、各地の治水工事は遅々として進まず、橋は流されたまま、街道は分断され、人の流れも物流も、すべてが滞っていた。
この男に王冠が授けられたなら、至上最低最悪の暗愚となるだろう。
そのような王族であろうとも、その身に流れている血は同じ。
その血に首を垂れる者は出る。
そのような男に後を任せることなど、とてもではないが許せることではない。
だがしかし、世界を護る防護壁は、ゴルドの血こそが必要なのだ。
ゴルドは親族でもと言っていたが、それで本当に防護壁の維持ができるのかどうか。まるで分からない今、賭けに出ることはできない。
優先すべきは、ゴルド・ドルバガの命である。
アレクサンドルは瞬時にそこまで考えて、ゴルドを両の腕で抱き上げ、力の限り、天に向かって叫んだ。
「おい、神よ! 今も見ているのだろう? ゴルドに貰った命。二度も救われて終わるなど、矜持に関わる。俺のすべてを神に捧げる。だから、この馬鹿を助ける力をくれ!」
アレクサンドルは必死に天へ向かって叫んだ。
抜けるように青い空は今も雲一つなく、朝とまるで変わっていないというのに。
今はまるで色を失ったように重く感じる。
すすり泣く周囲の声と、民の歓声が交じり合う中で、アレクサンドルが神に対して願う声が辺りに響いた。
しん、と突然周囲の音が消えてなくなり、アレクサンドルは、自分が今どこにいるのか分からなくなった。
それでもかまわず、神へ言葉を捧げる。必死であった。懸命であった。決死であった。只管であった。ただひたすら、声を、祈りを捧げ続けた。
「神よ! あなたの御使いの命が途絶えようとしています。どうか、どうか俺を、代わりに。俺はあの時に死ぬ運命だった。それを助けてくれたのは、こいつなんだ。もうゴルドから何も奪いたくない。俺の命を捧げる! だから、こいつの命を助けてくれ!!!」
≪≪この子が死んだ瞬間に胸に風穴が開いて絶命することになるお前の命なんて。どれだけの価値があるというのです≫≫
そこに、光が在った。




