3.大王と侍女と
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「そういう意味では、俺こそが、お前の婚約者を守りお前の下へと帰してやる義務を負っていた。すまないな、サシャ」
床に頽れむせび泣く侍女の前に、大股で近づいてくる足があった。
力強い足音。力強い声。力強い大きな手が、サシャの細い肩へと慰めるように掛けられた。
バルコニーの外にいる民衆からは主役の二人が突然見えなくなったはずである。だが、王族というものは平民に対してそういうものだと普段から思っているせいだろうか。変わらぬ歓声が聴こえてくる。
それに対して、バルコニーのこちら側では緊張した空気がはりつめていた。
大王と侍女、主従が見つめ合う。
「アレクサンドル様! わ、わたしの、なまえを?」
「身の回りの世話をしてくれている侍女の名前を把握していないほど暴君ではないつもりだぞ。いつも丁寧に机周りの掃除をしてくれているのはお前だろう?」
書き損じの書類の始末、減ったインクの補充、その他にも乱雑に本棚に戻した資料を元に位置へと戻しておくのも、サシャの仕事だった。
窓ふきや床磨きなどの力仕事というほどでもなく、だがこまごまとした作業を嫌がらない働き者であって、それなりに知識と情報を漏洩しない良識と信頼のある者しか就けない職分だ。
「名前を呼んでいただいたことなど、なかったので」
「俺から名前を呼ばれることは、未婚の令嬢には不名誉に繋がりかねんからなぁ」
自身の二つ名を思い浮かべてくくくと笑う。弛んでしまった表情を引き締め、アレクサンドルはまっすぐにサシャを見つめると口を開いた。
「お前の婚約者だけではない。共に戦った多くの騎士たちが、俺の命令に従いその命を失った。それなのにこの俺はのうのうと生きている。それが納得できないというならば恨むがいい。だが、これからも俺は自分という象徴を生かすために、部下たちの命を使うこともあるだろう。この血筋に多くの民を首を下げる力がある限り。他人任せにできない大いなる業を背負った者として、俺には民を守るための指導者としての義務と、命を次代に繋いでいく義務を背負っている」
過去には、敵の襲撃において自ら盾となり王族を逃がした騎士もいる。
今回の戦争でも、アレクサンドルが気が付いていないものも含めれば、多くの騎士たちがアレクサンドルの危機をその身をもって防いでくれていたに違いなかった。
もしかしたら、サシャの婚約者もその一人かもしれない。
「恨むなら恨め。それだけのことを、この血はしてきた。そうしてこれからも、俺はこの血を優先する。誰を犠牲にしようとも、俺はこの血を遺さねばならない 」
それはアレクサンドルの覚悟だった。
指導者を失った瞬間、どんな強い軍であろうと弱くなる。
他に指導する力を持つ者がいようとも、意見に従う者がいなければ功はない。部下にそっぽを向かれてしまうような存在では駄目なのだ。誰もがわかりやすく首を垂れる存在でなければならない。
その力こそ、血統だとアレクサンドルは受け止めていた。もちろん、個人的カリスマも大きい。だが、それはちゃんとアレクサンドルの近くで彼を知っている者たちにしか通じない力だ。それだけでは足りない。
未来永劫、王族として守る力を失う訳にはいかない。子々孫々まで引き継いでいく必要がある。
「だが頼む。俺を狙うなら、ゴルドや他の騎士たち、いや使用人たちのいない場所でにしてくれ。傍に俺の命を守る者がいれば、その者たちは躊躇いなく己の血を流す方を選ぶ。それを当たり前だと受け取らねばならない立場に、俺はいる」
そこで、一旦言葉を切ったアレクサンドルは、がりがりと頭を掻いた。
「でもな。俺を守るために誰かが血を流すのは、俺が嫌なんだよ。……矛盾しているがな」
苦く笑って、アレクサンドルはサシャの涙を、ハンカチで拭ってやった。
「きっと婚約者であった騎士は、お前に笑顔でいてほしいと願っている。そのために戦場に立ったのだと、俺は思う」
「わたし……私、は何をするべきだったんでしょう? 聖女様のように、あの人を救ってくれるよう、この身を捧げて神へ祈るべきだったのでしょうか」
悲痛な声だった。拭う傍からまた新たな涙をぼろぼろと零す。絞り出すような言葉には、迷いが滲んでいる。
「奇跡は極々稀にしか起こらない。神の御慈悲はあって当たり前のことではない。等価交換ですらなく、対価さえ払えば常に差し出されるものではないのだから」
そんなサシャの問い掛けを、アレクサンドルは即時に否定した。
「命を失う時は、結構あっさりとしたものだぞ。せっかく婚約者どのが命がけで守ってくれたお前の人生だ。いつか神の国で会った時に感謝を伝えられるように、素晴らしいものにするがいい」
「えぇ。アレクサンドル様の命を奪うより、あなたが笑顔でいる方が、ずっと喜ぶ」
声を和らげゴルドも同調した。
ずっと、見送った時の悲壮な顔ばかりが思い浮かんでいたサシャの脳裏に、もっとずっと普通の婚約者であった頃、街でデートの待ち合わせをした際の婚約者のはじけるような笑顔が浮かんだ。
その笑顔が、サシャの頭の中で、苦痛に歪んでいく。だって、一緒に生きていきたかったのだ。ずっと。笑顔で傍にいてほしいと願い願ってくれた相手はサシャにとって彼ひとりだ。
「うそ、……うそよ。だって、あの人の最後の言葉を届けてくれた人は、そんなこと言ってなかった。『アレクサンドル様を助けなければ、もっと多くの人の命が助かったのに。今からでも、間に合うかもしれない』って。だから、だからわたし……」
だからサシャは、アレクサンドルの命を奪おうと画策したのだ。
ゴルドによって計画はあっさりと阻止されてしまったし、実際の神との交渉についてまで直接語られたことで、すべてはでたらめであると分かってしまった。
それでも、あの言葉を信じてしまいたい気持ちがあるのも本当なのだ。
聖女たるゴルドの言葉を否定するつもりは、サシャに明確にある訳ではない。
ただ、信じたかった。信じたいのだ、今も。
──『アレクサンドル大王の命を捧げれば、その他大勢の命が、取り戻せるかもしれない』という、サシャにとって救いである言葉を。
「誰が、そんな言葉をお前に?」
アレクサンドルが、詳しく問い質そうと近づいた。サシャのすぐ目の前にしゃがみこみ、顔を覗き込んだ。
「え、あの……」
アレクサンドルの黒い瞳に見つめられたサシャは、瞳を泳がせ、言葉をよどませる。
「焦らなくていい。何があったのか、ゆっくり思い出せ。そもそも、どうしてサシャはアレクサンドル様のお命を奪おうという考えに至ったのだ」
ゴルドも自分に出せる最大限に優しい声を心がけて問いかけた。
安心させようとしたのか、ゴルドの柔らかくて嫋やかな手が、サシャの手を取り握りしめた。
「頼む。どんな些細な情報でもいい。覚えていることを教えてほしい」
祈るように、頼まれた。
ほどけてしまった銀の髪が、さらりとサシャの手にかかる。
それほどに近い場所に、ゴルドの美しい顔があった。
つい先ほど、刃をもって襲い掛かった相手である。理不尽な要求を突きつけ、泣きわめきもしたサシャに、これほど真摯に向き合ってくれるゴルドとアレクサンドルに、サシャの心に刺さった棘が、ゆっくりと溶けていく気がした。
すぐ目の前、アレクサンドルとゴルドという美しい黒と銀の二人からまっすぐに見つめられたサシャは、何度も唇を舌で湿らせながら震える声で話し出した。
「実は先週、自室に手紙が届いたのです。『お前の婚約者から最後の言葉を預かっている』と」
その言葉に、アレクサンドルとゴルドが顔を見合わせ眉を顰めた。
あの戦場で最後の言葉など残す余裕があったとは思えなかった。
「アレクサンドル様」
「あぁ。黒幕がいる、ということか」
誰かがサシャの心の闇に悪意を吹き込んだとしか思えなかった。
「一体、だれが」
眉を顰め考え込んだ。そのアレクサンドルの背中に、男が駆け寄り、隠し持っていた短剣を振り上げた。
「死ねぇ、アレクサンドルぅ!!」




