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第8話「黒衣の使者、影を裂く」

「この名前。覚えておいて。――動かせる駒は、最初から“罪人”がいい」


私は手元の契約書にサインしながら、ファランから渡された情報を読み返していた。

名前は、ガルスト・レミエル。王都に籍を置く辺境貴族の一人。

表向きは忠義者だが、裏では帝国からの便宜を受け、税の一部を着服している。


「ただの成金ですが、口も軽く、欲にも忠誠にも弱い。

見せ札にするには、ちょうどいいでしょうな」


ファランはそう言って口元を歪めた。


「使うだけ使って、いずれ切るわ」


「さすがでございます」


私は巻物を丸めて渡し、すぐにルウェナへと視線を向ける。


「この男の“裏”を民に流して。

ただし、“黒衣の令嬢”が裁いたという噂付きで」


ルウェナは無言で頷いた。


「……あなた、噂の種を撒くのに慣れてるのね」


「影の存在は、時として“虚構”から始まるものです。

影が在ると“思わせる”こと――それが、支配の第一歩です」


「……いいわ。その思わせぶり、気に入った」


私は微笑み、椅子から立ち上がる。


地下の拠点の空気は重く湿っているはずなのに、どこか心地よさがあった。

この空間だけが、私の“声”で動く。


それは、かつて何も持たなかった私にとって、たしかな感覚だった。


* * *


その夜。王都の広場では、奇妙な噂がひっそりと流れ始めていた。


――黒衣の令嬢が、貴族の屋敷に現れた。

――夜の帳とともに、正体不明の者たちが姿を消した。

――貴族の不正を告発する匿名文が、教会前に張り出されていた。


そのどれもが、根拠はなく、誰も“見た”とは言わない。

けれど、火のないところに煙は立たぬと人は言う。


噂は、静かに、しかし確実に広がっていた。


* * *


「噂は……意図どおりに回り始めています。

街の子供たちが“黒衣のお姉さん”の絵を描いていました」


ルウェナが報告するその声は、どこか不思議な調子だった。


「それで……どう思った?」


「……わかりません」


「嘘」


私は笑った。ルウェナは顔を伏せる。


「いいのよ。感情があるのは、悪いことじゃない。

あなたはそれを“使いこなす”必要があるだけ」


「……はい」


そのとき、空気がひとつ、震えた。


「やあ。相変わらず、良い感じに回してるね」


夜竜が現れたのは、まるで待っていたかのようなタイミングだった。

仮面もせず、黒い外套を揺らして、私の目の前に立つ。


「君、楽しんでる?」


「……なにを?」


「支配すること。嘘を広めること。人を揺さぶること。

君はこれを“義務”でやってるの? それとも、もう“喜び”に変わりつつある?」


「……わからない」


私は答えた。


「でも、心が動かないわけじゃない。

それを“楽しい”と呼ぶなら、そうなのかもしれない」


夜竜は小さく笑った。


「いいね。そういう答え、好きだよ。

君が完全に無感情だったら、つまらないもの」


「なら、私も聞くわ。……あなたは?

私を“見ている”だけで、満足しているの?」


夜竜はふっと顔をそらし、石壁に背を預けた。


「君が世界をどう変えるかを見るのが、たぶん僕の唯一の娯楽だからさ。

でも、たまには“想定外”も欲しいなって、思うこともあるよ」


私はその言葉の意味を、深く問うことはしなかった。


けれど――確かにその声の奥に、“願い”のようなものがあった気がした。


* * *


イザベラは、祭壇の前に立っていた。


聖剣の祭壇。

そこに、夜竜との契約の象徴たる“夜の剣”が眠っているはずだった。


「……来なさい。私は、選ばれた者」


彼女は手を伸ばした。


だが、何も起きなかった。


ただ、静寂だけが返ってくる。


「……なぜ……?」


指先が震え、額の宝石がわずかに鈍い光を放つ。


そのとき、彼女の背後にいたアルドリックが膝をついた。


「陛下……?」


イザベラは微笑み、首を振る。


「……問題ないわ。ただ、少しだけ“意志”が必要だっただけよ」


けれど――


その剣は、ほんのわずかに、冷たい拒絶の気配を放っていた。

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