第7話「誰にも知られずに消える者」
「殺さなくていい。……ただ、“消えた”と思わせて」
私のその指示に、ルウェナは一瞬だけ、まばたきをした。
彼女のような“影”が戸惑いを見せることは珍しい。
けれど私は、それ以上は言わなかった。
任務の対象は、王宮の古文書室に勤めていた老書記官、エルド・ファレム。
私の“処刑”にも立ち会い、裏で報告を重ねていた帝国側の密偵だった。
それでも彼は、何十年も王政の記録を守り続けた、ただの文官に過ぎない。
命の価値は平等ではない。
でも、無意味に奪われる命のことは――たぶん、忘れたくない。
「承知しました」
ルウェナの返答は、いつもどおりだった。
けれどその背中は、どこか静かに揺れていた。
* * *
深夜。王宮の裏手にある文書庫。
ルウェナは、風のようにそこに降り立った。
物音はほとんどしない。
しかし、老書記官は気配に気づいていたのだろう。
机から顔を上げ、まっすぐこちらを見た。
「……来たか。やはり“彼女”は生きていたのだな」
ルウェナは、返事をしなかった。
ただ、黒の装束のまま、静かに足を踏み出す。
「私には、何の力もない。
だが、それでも……あの娘が処刑されると聞いたとき、胸の奥で何かが崩れた。
私は――王政に仕える一書記官でしかなかったのに」
その声は震えていた。
そして、どこか懐かしさを含んでいた。
「……エリス様の命令は、“殺さず、消えるように仕向ける”ことでした」
ルウェナがそう告げると、老書記官は目を見開いた。
「……生かす、のか?」
「はい。生きたまま、記録から消す。王妃にも帝国にも、“あなたは死んだ”と思わせます。
二度と表には出られませんが……それでも、命は残ります」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、彼は机の引き出しから一冊の古い手帳を取り出した。
「これを、彼女に渡してくれ。“王妃”が何を偽ってきたか――
この国を思う者が、まだほんの少しでもいることを、彼女が信じられるなら」
ルウェナは、静かにそれを受け取った。
「ありがとう」と、心のなかで呟きながら。
* * *
「……殺さなかったのね」
ルウェナが戻った後、私は彼女の手から手帳を受け取り、そう告げた。
「エリス様の命令に従ったまでです」
「それだけかしら?」
ルウェナは黙った。
だが、その瞳の奥にあったもの――
それは、確かに“人の心”に似ていた。
私は書記官からの手帳を開き、最初のページを読んだ。
そこには、誰にも読まれることのなかった“真実”が綴られていた。
王妃イザベラが、王の死を演出し、
夜竜との“偽の契約”を周到に成立させた過程。
帝国との密約。
そして、影武者である私の出生にまつわる記録までも。
「……証拠が、またひとつ増えたわね」
けれど私は、それをまだ使わない。
これは、私が“最期に突きつけるための刃”になる。
「ルウェナ。あなたは、いつか私を裏切るかしら」
「私は影です。裏切るという概念が、私にはありません」
「そう……」
私は彼女の目を見ながら、微笑んだ。
「……でも、それでもいい。
裏切られるのは、信じた証だから」
その言葉に、ルウェナはわずかにまばたきをした。
たぶん、戸惑ったのだろう。
でもそれを表に出すことはなかった。
* * *
イザベラは、夜の儀式室で衣を整えていた。
濃紺の礼装に身を包み、髪を巻き上げ、額には黒曜の宝石。
「今宵、私はもう一度“夜竜の意志”を示す」
傍らでは、誓約騎士アルドリックが剣を持ち、跪いている。
「剣が応えなければ、契約が破綻する恐れが……」
「構わないわ。
私が“選ばれている”と、剣が証明してくれる。
あの女などに、譲るわけがない」
イザベラの瞳には、確信と焦りが同居していた。
夜の聖剣は、まだその姿を見せてはいない。
だが、間もなく――
その“代償”を求める声が、聞こえることになるだろう。