第6話「最初の密約」
地下拠点の奥にある旧謁見室は、かつて王家の密命を交わすために使われていたという。
だが今は埃と黴の匂いが染みつき、壁には苔が這い、天井の石板は崩れかけている。
それでも私は、この場所を“交渉の場”に選んだ。
新しい国には、新しい密約が必要だから。
「ほう、まさか“あの令嬢”が俺にお声がけくださるとは」
現れたのは、年若いがどこか老獪な目をした男だった。
身なりは質素だが、指先には高価な指輪が光っている。
その一歩一歩から、獲物を値踏みする猟犬のような視線が伝わってきた。
「初めまして、レオニス商会の代表、ファラン・グレイと申します。
先代から“王家の隠された取引先”としての誇りを守っております」
「誇り、ね。なら、ひとつ問うわ。
あなたの“忠義”は、どちらに向いているの?」
私の問いに、ファランは肩をすくめた。
「利益と生存。それだけです。
けれど、“どちらの側に立った方が、より利益があるか”――
それを見極める目だけは、先代から受け継いでいます」
「なら、聞くまでもないわね。私と契約しなさい」
私は小さな巻物を机に置いた。
それは、夜竜の技術を使って作った“契約書”。
署名と魔力の刻印によって、双方の誓約内容が自動で記録される特殊な書式。
「これは……」
ファランは驚きの色を隠せず、しばらくその巻物を眺めた。
「あなたに忠誠を誓うというより、“この書に従って動く”と……なるほど。
あなたは、“私”を信じていない」
「当然でしょう。信用というのは、契約で代替できる」
私は静かに言い放つ。
「忠誠なんて感情に頼るから、裏切りが起きる。
なら最初から、裏切れない仕組みを作っておけばいい」
ファランは一拍、黙った。
その目が、私を見据える。
「――なるほど。あなた、本当に“影の支配者”になるつもりだ」
そして、笑った。
「いいでしょう。こちらも商人、契約に不備がないなら従います。
ただし、“代価”はいただきますよ?」
「当然。協力の対価は、正当に払う主義よ。
けれど、“誠意の対価”は別。もし裏切れば……あなたの“記録”ごと消す」
私の言葉に、ファランの笑みがわずかに引きつった。
「冗談が……上手でいらっしゃる」
「冗談を言った覚えはないわ」
その瞬間、隣に立っていたルウェナの目がわずかに揺れた。
私は、それを見逃さなかった。
交渉が終わり、ファランが去ったあと、私はルウェナに問う。
「なにか、気になることでも?」
「……いえ。契約という概念に、エリス様がこれほど固執されるとは思いませんでした」
「人は感情で動く。けれど、感情では縛れない」
「夜竜と、感情で契約されましたよね」
「……それは、特殊例。例外は常に“始まり”を支えるものよ」
私は微笑んだ。
ルウェナは、黙って頷いた。
その横顔には、ほんのわずかに――安堵のようなものが浮かんでいた。
* * *
帝国監察官レイ・カシエルは、王都の東区にある宝飾商の帳簿を手にしていた。
「ここが、王太子の裏金の流入口……なるほど。
帝国への税還元が滞る理由がようやく見えてきた」
隣には、現地協力者として使われている女魔術師の姿。
「どうする? 王太子に直接突きつける?」
「いや、まだ。
“夜竜の契約”が破綻してから、最後の一押しをくれてやればいい」
レイは書類を一枚破り捨てる。
「この国はもう終わっている。
あとは誰がその幕引きをするか……それだけの話だ」
月はまだ昇らず、
けれど“終焉の帳”は、静かに王都全体を覆い始めていた。