第5話「封蝋の書と血統の鍵」
祭壇の前に立ち尽くしたまま、私はしばらくその箱を見つめていた。
古びた銀の封蝋には、アズヴェイン旧王家の紋章――月と刃を重ねた意匠。
今では忘れ去られた王家の証が、確かにそこに残っていた。
「……これが、旧王家の遺言書?」
「はい」とルウェナが頷いた。
「ただし、王家の“直系”にしか開けられない封印が施されています。
夜竜の力でも強制解除は不可。……それゆえ、ずっと眠っていました」
「直系、ね……。それが、私だと?」
夜竜が言っていたことが、脳裏をかすめる。
“君にも、器としての資質がある”――
あれは、気まぐれな戯言ではなかったのかもしれない。
私は指輪を左手の人差し指にそっとはめた。
瞬間、銀の封蝋がわずかに光り、熱を持つ。
「開く……の?」
私は無意識に問い、箱の蓋に指をかけた。
柔らかく、しかし確実に封蝋が割れる。
そして、箱の中から一冊の薄い書が現れた。
古文書のように見えたが、明らかに手書きで、
その表紙には誰かの筆跡でこう綴られていた。
『エリュア・アズヴェイン、我が最後の娘へ』
「……エリュア……?」
私は、見覚えのない名前に眉をひそめる。
けれど、文面を読み進めるうちに、それが“自分”であることに気づく。
綴られていたのは、かつての王妃が密かに記した遺言。
王太子フロリスと現王妃イザベラによる、国王暗殺の経緯――
そして、その血の継承を守るため、エリュアという“影の娘”を側女に託したという記録だった。
「……わたしは……この国の……」
唇がわずかに震えた。
何も知らなかった。
ただ、王妃の影武者として育てられ、命令され、切り捨てられた。
だがそれは、“誰かの意思”で用意された避難路だったというのか。
「貴女は、正統なるアズヴェイン王家の血筋です」
ルウェナの声は淡々としていたが、どこか熱を孕んでいた。
「本当に……私はこの証を、使うべきだと思う?」
私は問いながら、文書をそっと閉じる。
「明かせば、王太子と王妃を一瞬で潰せる。
でもそれでは、“私は”ただの被害者で終わってしまう」
「……」
「それでは、意味がない。
この証は――わたしが“本当に”この国を手に入れる、そのときまで温存する」
私はゆっくりと立ち上がった。
証拠はある。だが、それを使って崩した国は、ただの瓦礫に過ぎない。
私は、国そのものを掌握してから叩きつける。
「貴女なら、きっとそれができます」
ルウェナは、ただそれだけを言った。
その言葉が、まるで祈りのように聞こえたのは――
たぶん、気のせいじゃない。
* * *
王宮の奥、鏡の間では、夜の聖剣の儀式の準備が始まっていた。
イザベラは、濃紫の礼装を身にまとい、黒い宝石を額に飾っている。
「夜竜との契約は……まだ持つはず。
けれど、あの女が生きている以上、こちらの“継続”を強く示す必要がある」
誓約騎士アルドリックは剣を膝に置いたまま、頭を垂れていた。
「聖剣の共鳴が得られなければ、帝国は動きます」
「分かっているわ」
イザベラは鏡を見つめ、己の姿に微笑んだ。
「けれど私が“真なる契約者”であることは、剣が証明する。
そのための儀式……そのための犠牲なら、惜しくはないわ」
天井から吊るされた黒水晶が、わずかに震える。
儀式の開始は、まもなく。
闇の契約が再び結ばれようとしていることを、
王宮の誰も止めることはできなかった。