第30話「王妃ではなく、宰相として」
教会からの“神託”は、誰も予想しなかったかたちで下された。
――影が秩序を導くとき、
真なる契約は、剣の眠る場所に再び息吹を得る。
文言は曖昧だった。
誰の名もなく、誰の姿も記されていない。
だが、人々はそれを知っていた。
それが“黒衣の令嬢”を指していることを。
「……ふざけてるのね」
イザベラは、報せを受け取ったその場で、報告書を引き裂いた。
「私が、どれほど祈ったと?
どれほど捧げたと?
なぜ“名前のない女”に、その声が降るのよ……!」
震える手で“偽聖剣”を握り、血を捧げる儀式を始める。
「神託が与えられないなら、自ら力を引きずり出すしかない!」
だが、剣は動かなかった。
魔力だけが暴走し、部屋の結界を破って周囲を呑み込む。
王宮の空が、黒く染まった。
* * *
「……動くわ」
エリスが言った瞬間、ルウェナはすでに仮面を手にしていた。
「偽りの“神”が崩れようとしている。
“影”が沈黙のままでは、国そのものが裂ける」
「では、出番ですね」
ルウェナは黒衣を翻し、夜の街へと駆ける。
王宮前に現れた“黒衣の令嬢”に、民は祈るようにひれ伏した。
ルウェナは無言のまま、暴走する魔力の前に立ち、
仮面の下で、こう呟く。
「……この国が望んだのは、“力”ではなく、“在り方”です」
そして――黒衣の令嬢は、魔力を静かに断ち切った。
剣は砕け、王妃は膝をつき、
イザベラの狂信は、風に溶けた。
* * *
「……あなたが出なくてよかったのですか?」
戻ってきたルウェナが問うと、エリスは答えた。
「私は、王妃じゃない。
でも、“宰相”なら、名を持たなくても世界を動かせる」
「……剣が、動いています」
ルウェナが言った。
そしてそのとき、空気が震えた。
夜竜の声が、静かに落ちてくる。
「君は、“王”ではない。
だが、“構造”を語れる者だ。
名を刻まぬ者こそが、時に世界の芯を支える」
銀の光が、誰にも触れず、ただエリスの背後に降りた。
「これが剣ではないとしても――
これは、“国のかたち”だ」
私は振り返らなかった。
けれど、私は確かに感じた。
この国の未来が、“名のない意志”によって動き始めたことを。
* * *
そしてその日以降、“王”の名は口にされなくなった。
代わりに、民はこう呼んだ。
――“影が統べる国”、と。
――“宰相が治める国”、と。
――そして、誰よりも静かに、この国を背負った女の名を、
あえて呼ばぬまま、記憶に刻み続けた。




