第29話「沈黙を武器とする者」
その夜、再び“黒衣の令嬢”は現れた。
街の裏通り。
ただ一瞬の気配、ただ一瞥の視線。
仮面の下に言葉はなかった。
手招きもせず、名乗ることもなく、ただ――立ち去った。
「……語らなかったか」
屋根の影からそれを見送ったレイ・カシエルは、小さく息を吐いた。
「沈黙、ね。
これは“対話の拒絶”ではなく、
“主導権はこちらにある”という意思表示」
副官が戸惑い気味に問う。
「何も得られていないのでは……?」
「逆だ。
“語らない”ということは、“語らなくても伝わる”と信じている証だ」
レイは夜空を仰いだ。
「情報戦で本当に恐れるべきは、
語られる言葉ではなく、“語られない意志”だ」
* * *
「……あなた、まるで“神”のように振る舞っています」
仮面を外したルウェナがそう言ったのは、拠点に戻った直後だった。
「仮面をかぶって歩くだけで、人々が跪く。
言葉を発さなくても、皆が意味を勝手に与える」
私は彼女に笑いかけた。
「それが“語らせる支配”よ」
「……恐ろしく、そして、眩しかった」
ルウェナの言葉は震えてはいなかったが、
その目の奥に揺れる何かがあった。
「仮面の中から見たこの国は、
“何かを信じたい”という欲望で満ちていた。
それが私を“令嬢”にしていた」
「それでいい。
“正体”は関係ない。
見たいものを見せてあげれば、彼らは勝手に意味を作ってくれる」
私は机に手を置いた。
「言葉は、操作される。
でも、“現象”には信仰が宿る」
ルウェナは小さく首を傾けた。
「……では、あなたはいつまで“沈黙”でいるつもりですか?」
「最後まで。
本当に語るときは、“言葉”ではなく、“行動”になる」
* * *
「神託を――“捏造”しなさい」
王宮奥の一室で、イザベラはそう命じた。
「教会が沈黙を貫くなら、私が“神の声”を語ってやる。
必要なのは“信じさせること”――
真実なんて、後で書き換えればいい」
神官たちはざわついた。
だが、その場にいた全員が“王妃の命令”を拒めなかった。
「書簡は“南方教区”からのものにして。
あそこなら管理も甘く、偽装も容易いはず」
「……それは、教会法に反する行為です」
「信仰は、秩序のためにあるのよ。
秩序の崩壊を防ぐために、私は“神”を利用する」
その言葉に、神官たちは言葉を失った。
だが、その中にひとり――
沈黙のまま、瞳だけが揺れた若い神官がいた。
彼はまだ、“信じていた”。
神と、言葉と、人の理性を。
その心が、最初に揺らぐ火種になることを、
イザベラはまだ知らなかった。




