第2話「影に従うもの」
夜の気配がまだ残るなか、私は人気のない石畳を踏みしめて歩いた。
足音を殺し、身を潜めるように。だが、臆してなどいない。
この身が影であるなら、影として生き延びる術もまた染みついている。
処刑台から姿を消してから、どれほどの時間が経ったのか。
私は今、王都の外れ――誰も寄りつかない旧地下街の一角にいる。
水の染み込んだ石壁。崩れかけたアーチ。
王都の“裏”が息を潜めて続くこの場所は、確かに私のような存在にふさわしかった。
「ようこそ、エリス。こっちは居心地がいいよ。誰にも見られずにいられるからね」
闇のなかに溶け込むようにして、夜竜が現れる。
いつの間にか私の背後に立ち、興味深げに私を眺めていた。
「……さっきのは、何だったのかしら。あれで契約が済んだとでも?」
「うーん、契約って形式だけで済ませるとつまらないからね。
君の望みがまだ定まってない以上、本当の意味では“始まってない”と思っていい」
「つまり、私がどう動くかで、契約の意味が変わる?」
「そのとおり。だから僕は見守る。君がどう“壊す”のかを」
夜竜は笑っている。けれど、その笑みに温度はない。
その笑顔の下で、彼は私を量っているのだろう。
利用価値があるか。代替が利くか。あるいは、ただの観察対象か――
私は目を逸らさずに言った。
「なら、見ていなさい。私はこの国を焼く。でも、手は汚さない」
「いいねえ、それが君のやり方なら僕は歓迎するよ」
夜竜が手を振った瞬間、足元の闇が膨らみ、そこから一人の少女が現れた。
黒のメイド服、短く切り揃えた髪、無表情の中にわずかな静けさ。
「……彼女は?」
「僕の眷属。名前はルウェナ。君の補佐役として使ってくれるといい。戦闘もできるし、隠密も得意」
ルウェナは音もなく膝を折り、頭を垂れた。
「はじめまして、エリス様。以後、影としてお仕えいたします」
「……よろしく。あなたが本当に忠実かどうか、確かめるのはこれからだけれど」
「はい。そのお言葉をもって、私の存在意義が確立いたします」
口調は丁寧。語尾には揺らぎもない。
けれど、その目は一瞬、私の視線をしっかりと受け止めていた。
この娘――感情がないわけじゃない。
ただ、それを“必要とされていない”と思っているだけ。
(なるほど。私と似てるのかもしれない)
私は小さく頷いた。
「この場所は?」
「帝国の目が届かぬ、アズヴェイン旧王国の“地下の屑”です。
貴族たちはこの区域を見捨て、貧民層もすでに退去しています。
追手は来ません。ただし、物資も情報も、全てはこちらで準備します」
淡々と語るその言葉に、私は何の不安も感じなかった。
「いいわ。ここを根にする」
ようやく、自分の足元に“始まり”を感じた。
私はここから立ち上がる。影から影へと歩み、いずれ光を握るために。
* * *
「……エリスが消えた?」
イザベラの声は、ぶどう酒の琥珀色のように甘く響いた。
けれど、その目の奥は笑っていなかった。
「はい。処刑の瞬間に、光と共に消失。魔術痕も残っていません」
報告したのは誓約騎士、アルドリック・ヴェイン。
金髪を後ろに束ね、無垢な忠義だけをその瞳に宿している。
「痕跡がないなど、あってはならぬ。処刑は儀式。観衆が見ていた。
そのうえで“消えた”となれば――帝国が騒ぎ出す」
「では、始末いたしましょうか?」
「……いいえ、今はまだ泳がせて。あの娘の動きが、夜竜の意図を露わにするかもしれない」
「御意」
アルドリックは頭を垂れたが、視線は剣の鍔から外れなかった。
彼にとって忠義とは、言葉ではなく行動の果てにあるもの。
命を差し出す覚悟は常にある。
「……あの女。いつか、聖剣を求めて再び現れる。
その時こそ、私が彼女を――“完成”させてあげるわ」
イザベラの笑みは艶やかに、そしてどこまでも歪んでいた。
月はまだ昇っていなかった。
だが、影はすでに城の中に入り込み始めている。