第12話「城下にて、影は名を得る」
「“黒衣の令嬢”が、名前を持ったらしいです」
戻ってきたルウェナは、最初にそう告げた。
私は、思わず彼女を見た。
「……誰が?」
「城下の少年たちです。
パンを渡したとき、“ありがとう、エリス様”と」
その瞬間、部屋の空気がひやりとした。
私は手を止め、机に置いていた羽ペンをそっと寝かせる。
「それは、誰かが意図的に広めている?」
「いえ。どうやら“黒衣の令嬢”という物語が、街の中で“人格”を持ち始めているようです。
一度だけ名前を聞いた子が、それを友人に話し、
次の子は“その名前を最初から知っていたような顔”で語る」
「情報の自己増殖……厄介ね」
私は椅子に背を預けたまま、しばらく天井を見上げた。
“名前”とは、呪いだ。
呼ばれることで存在が確立され、
それが固定された瞬間から、“自由”を奪われていく。
「私は、名など欲しくなかったのに」
「……しかし、皆が“名のあるもの”を信じたがっているのです」
ルウェナは、あくまで事実だけを述べるようにそう言った。
「象徴には輪郭が必要。仮面でも、偽名でも、祈りでも。
その“形”があればこそ、彼らはそれを信じ、頼る」
私はしばらく目を閉じた。
私は影だった。誰にも気づかれない、誰の代わりにもなれる存在。
けれど今、私は“唯一”として語られ始めている。
(……それが、“支配”だというのなら)
私は、自らの中で何かが変わり始めているのを認めざるを得なかった。
「なら、名は“民が決めた”ことにしておいて。
私はそれを否定しない。けれど、自らは名乗らない」
「承知しました」
ルウェナの瞳に、かすかな色が浮かんだ。
それは、ただの報告者の表情ではなかった。
「それと……少し気になる動きがあります」
「なに?」
「王家と繋がりのある貴族の子息の一人が、
“自ら黒衣の令嬢と接触を図ろうとしている”との情報がありました」
「理由は?」
「不明。ただ、監察官の動きや王太子の混乱に失望しているという噂も」
私は少し黙ったあと、口元をわずかに緩めた。
「反逆の意志があるわけじゃない。
でも、“何かを変えたい”という心が揺らいでいる……そういう人間は、使える」
「では、接触しますか?」
「いいえ。こちらからは何も動かない。
“彼”が、自ら“扉を叩く”までは」
* * *
玉座の間では、イザベラが薄い笑みを浮かべていた。
「……ついに、日が決まったのね」
彼女は窓から射し込む月光を見ながら、ゆっくりと手を組んだ。
「満月の夜、“夜の聖剣”は再び現れ、
その輝きは、帝国にも、この国にも、私が“選ばれた者”であることを示す」
傍らでは、宮廷魔術師長のメルセデが静かに書状を巻いている。
「祭壇の準備も整いました。
ただし、剣が再び応えるかは……」
「応えさせるのよ」
イザベラは断言する。
「そのための“贄”は、既に用意してあるわ」
その目には、もはや信仰も誇りもなく、
あるのはただ、“王であり続ける”という執着だけ。
* * *
その夜。王都の裏通りで、ひとりの少年が、祈るように呟いた。
「……ありがとう、エリス様」
パンを手にした小さな手が、胸の前でそっと握られる。
そこに“神”などいない。
けれど、少年にとっては、“黒衣の令嬢”こそが希望だった。
そしてその希望の名が、城下に、静かに根を下ろしはじめていた。




