第11話「最初の譲歩は最初の支配」
「――命までは取らないわ。
でも、その代わり、今後は私の言葉を第一に考えて」
私は震える貴族の男にそう告げながら、彼の前に“証拠書類”の写しを滑らせた。
ガルスト・レミエル。
税金の横領、密輸の黙認、帝国関係者との書簡――
その全てを、こちらは既に把握していた。
「条件は、三つだけ。
まず、情報の優先供給。
次に、私が望む人物に便宜を図ること。
そして最後に……“二度と、嘘をつかないこと”」
彼は青ざめた顔で何度も頷いた。
命を取られるよりも、こうして“見逃される”ほうが、
よほど怖い――そういう種類の人間だった。
私は、それを見越していた。
「感謝するのね。
私は慈悲深くも、あなたを処刑しなかったのだから」
「は、はっ……あ、ありがとうございます……っ!」
礼儀正しく深く頭を下げるその姿を、私は冷ややかに眺めた。
最初の譲歩は、最初の支配。
命を奪わずに、首輪をかける。
それが、私のやり方。
「彼が次に裏切ったら、証拠を公表するのですか?」
ルウェナが問う。声はいつもと変わらぬ平静だったが、
その奥に、わずかな疑問の色が混じっていた。
「……いいえ」
私は首を振った。
「その時は、公表すらしない。
“消えた”ことにするだけ。誰にも知られずにね」
「……理解しました」
しばらく沈黙が落ちた。
だがルウェナは、言葉を継いだ。
「ですが、なぜ助けたのですか。
あの貴族を、排除することもできたはず」
「……たぶん、“同情”という言葉を使えば済むんでしょうね」
私は自嘲気味に笑った。
「でも違う。私は、自分のために彼を使えると思っただけ。
彼に“恩”を与えれば、彼は私を“恐れながら敬う”。
その歪な忠誠が、最も強い鎖になる」
「それは……“共感”ではないのですか?」
ルウェナの問いは、想定外だった。
私は視線を伏せたまま、机の上の書類を指でなぞった。
「……そんなつもりはなかった。
でも、もしそう見えたなら……少しは人間になれたってことかしら」
ルウェナはそれには何も言わなかった。
けれど、その横顔は、どこか優しく、寂しげだった。
* * *
「……最近、興味深い動きが増えている」
ファラン商会からの報告は、私の推測よりも早く動いていた。
「“第三の勢力”に通じる噂を聞きつけた貴族たちが、
水面下で“黒衣の令嬢”への接触を探っています」
「いい傾向ね。こちらから名乗りを上げる必要はない。
彼らが“自分から選んだ”と思わせた方が、後々都合がいい」
「では、こちらからは“中立の立場”を貫きます。
どこにも属していない“実務の協力者”として」
私は頷いた。
影は、あらゆる場所に溶け込む。
それが“宰相”という役職でなくとも、国を動かす指先にはなれる。
* * *
王宮の応接室にて。
監察官レイ・カシエルは、イザベラと向き合っていた。
「再契約の準備が整ったとのことで、拝見させていただきます」
「……ええ、準備は完了しておりますわ。
夜竜は、再びこの国に力を与えるでしょう」
イザベラの笑みは相変わらず美しい。
だが、レイの目はその奥を見逃さなかった。
「“力”は確かに見せかけの秩序を保ちます。
ですが、“意志”のない契約は、必ず破綻します」
「……それは、帝国のご見解かしら?」
「いえ。あくまで、私個人の意見です」
レイは立ち上がり、軽く一礼を送る。
「――ですが、契約者の“資格”は、証明されなければ意味がありません。
ご準備のほど、心より拝見させていただきます」
その言葉に、イザベラの指が、微かに震えた。
誰よりも王太子妃であることに執着する彼女の内側で、
何かが、静かに崩れ始めていた。




