第10話「契約の影は火種となりて」
「……夜竜信仰が、“再び”広がりつつあるようです」
ファラン商会からの報告に、私は思わず眉を寄せた。
「地下教会、路地裏の信徒、そして“黒衣の令嬢”を“夜竜の花嫁”と呼ぶ声まで」
報告書の文字は、丁寧に整っているというのに――その中身は、混沌そのものだった。
「信仰、ね……」
私は椅子にもたれ、書類を机の端に置いた。
“夜竜”は力を与え、“黒衣の令嬢”は秩序をもたらす。
そう言って、民が街角で語り合っているのだとファランは言った。
確かに、意図して流した噂が広がっている証でもある。
でも、これは危うい。
「私が、“神”にでもなったつもりだと?」
「……違いますか?」
ルウェナの声が、静かに落ちた。
私はそちらを向き、ゆっくりと首を横に振る。
「違うわ。私は“偶像”になるつもりはない。
私は、神ではなく“現実”よ」
「……けれど、民はエリス様を“救いの象徴”として見始めています」
「それが誤りだというの。
救いなんてもの、私の中にはない。
与えるのは“秩序”と“罰”、それだけよ」
私の声は、いつもより少しだけ尖っていた。
ルウェナは何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけまばたきをして、視線を落とした。
「……それでも、彼らは信じてしまうかもしれません。
“夜竜があなたを選んだ”という事実を、意味あるものとして」
私はその言葉に、無意識に指先を組んでいた。
夜竜――あの軽薄な笑みと、時折見せる底知れぬ沈黙。
彼が“何を望んで私を選んだのか”、私はいまだに知らない。
けれど、それを“神託”だと呼ぶ者が増えれば、
私の意志は“信仰”という皮で塗りつぶされる。
それが、怖い。
「拠点の周辺に、香を焚く者が現れました。
石に刻印を彫り、“宰相の花嫁”として祈りを捧げている者もいます」
「……排除して。形式は崇拝でも、実態は“暴徒”よ。
どれほど静かでも、“意志なき熱”は支配には不要」
「承知しました」
私は立ち上がった。
沈黙のなか、ルウェナが小さく呟く。
「……エリス様は、それでも“誰かに見られている”のだとしたら?」
私は振り返らずに答えた。
「それならその誰かに、はっきり知らしめてやるわ。
私は、偶像ではなく――宰相だと」
* * *
イザベラは、礼装の裾を長く引きずりながら階段を降りていた。
その奥には、王家でも限られた者しか知らぬ祭壇室。
かつて夜竜との契約を行い、“夜の聖剣”を召喚した場所だった。
「民は、もうこちらを見ていない。
だからこそ、“血”でつなぎ直す必要があるのよ」
後ろを歩く魔術師長、メルセデが首をかしげる。
「陛下……まさか、民の生贄を?」
「夜竜は力を好む。そして恐怖を糧とする。
その契約を“揺るがぬもの”にするには、儀式が必要なの」
「ですが、帝国の目があります」
「だからこそ。帝国がこの国を見限る前に、
夜竜との“絆”を証明しなければならない」
階下に降り立つと、祭壇にはすでに血を吸い込んだ黒布が敷かれていた。
封じられた剣の影が、淡くゆらめく。
「来なさい。私こそが、あなたを手にする者。
“あの娘”ではない。選ばれるのは、私――イザベラ・アヴェルシアよ」
その言葉に応じるように、剣の影がわずかに蠢く。
けれど、そこには明らかな“拒絶”の気配があった。
それをイザベラだけが、まだ気づいていなかった。




