第1話「処刑台の令嬢は笑わない」
処刑台の上は、意外なほど静かだった。
空はまだ朝になりきれず、鈍く濁った紫に染まっている。
風が頬を撫でるたび、囚人服の袖がわずかに揺れた。
けれど私の心は、微動だにしなかった。
私はただ、まっすぐ前を見ていた。
壇上の中央に立ち、手足に冷たい枷をはめられたまま。
膝は折れず、背筋は曲がらない。
これは私の終わり。そう決められた結末。
けれど、私の意志まで奪えると思ったのなら――それは、大きな誤算だ。
「罪人エリス、国家への反逆および王妃陛下に対する冒涜の罪により、処刑を執行する」
読み上げる声は慣れた調子で、感情の欠片もなかった。
群衆は冷ややかで、何の興味もなく、ただ儀式としてこの光景を眺めている。
当然だ。
私は“誰でもない存在”だから。
王妃の影武者──それが、私のすべて。
名も、血も、未来すら、彼女の模倣に費やされた。
見た目も、声も、振る舞いも。
生まれた時から、私は私であることを許されなかった。
そして今、用済みになった私はこうして、
彼女の罪をかぶって“粛清”される。
ああ、くだらない。
私はふと、視線を天に向けた。
空が遠い。
まだ明けきらない夜が、私を赦すように覆っている。
これが終われば、何もかもが無に還る。
それならそれでいいと、どこかで諦めていた。
「……面白くない終わり方だねえ」
ふいに、耳元で誰かの声がした。
低く、軽く、妙に艶のある男の声。
けれど、振り返ることはできない。
周囲の誰も、反応していないようだった。
「もうちょっとさ。こう、舞台ってものは盛り上げてから終わらないとつまらないじゃない?」
私は静かに目を伏せる。
幻聴かと思った。
けれど、足元にわずかに影が差したとき、私は確かに“何か”の気配を感じた。
「君、名前は?」
「……エリス」
「名字は?」
「捨てたわ。もともと借り物だったから」
「いいね。じゃあ、君にちょっとした“契約”を持ちかけにきた。興味ある?」
冗談のような調子で言いながら、男は壇上に現れた。
黒の外套、金の瞳、微笑みと毒を同時に宿したような顔。
姿を見た誰もが、一瞬で息を飲む。
動けない。
兵士も、貴族も、衛兵も、まるで世界が止まったように沈黙した。
けれど彼だけが、自由だった。
私の目の前まで歩いてきて、膝をつくようにして目線を合わせる。
「ねえ、君。ここで死ぬのって、正義だと思う?」
「……どうかしら。罪を着せられて死ぬのが、この国の正義なら、わたしは喜んで悪でいるわ」
「いい答えだ。じゃあ、こういうのはどう?」
男は指を鳴らす。
その瞬間、枷が音を立てて砕けた。
「僕は夜竜。君にちょっと興味があってね。力を貸そうと思って来た。君は、君のやり方でこの国を変えてみない?」
「何を見返りに?」
「何でもいい。君が楽しければそれで」
「……正気とは思えないわね」
「僕はいつだって不真面目さ」
私は一つ、呼吸を深く吸った。
何かが、胸の奥で燃え始める気がした。
ずっと冷たく凍りついていた場所に、炎が灯る。
熱いというよりも、鋭く、突き刺すような光だった。
「じゃあ、その遊び……乗ってあげる。条件はひとつ」
「言ってごらん」
「わたしは誰も殺さない。けれど、わたしの命令なら、いくらでも命は散っていい」
夜竜はふっと笑った。
「了解。そういう契約、好きだよ」
彼の指先が私の手に触れた瞬間、世界が裏返った。
視界が闇に沈み、次に目を開けた時、壇上には誰もいなかった。
まるで、最初から“いなかった”かのように。
処刑台には誰も立っておらず、衛兵たちは混乱して空を見上げていた。
けれど、その混乱のなか、誰も知らない場所に立つ私が、
ゆっくりと黒衣をまとい直していた。
これは、始まりだ。
エリスという“影”の終わりではなく、
この国を喰らい尽くす“宰相”の誕生。
私は笑わない。
けれど、心の奥で確かに思った。
――もう一度、この国を焼き尽くす。
* * *
王太子妃イザベラは、寝台でぶどう酒を口に含みながら笑っていた。
「……処刑は無事に済んだのね。あの小娘も、ようやく“私”の代用品として役目を終えたわけだわ」
その声に、隣の王太子フロリスが気怠げに頷く。
「帝国からの催促が来てる。夜竜との契約、早く更新しろってさ」
「ふふ、わかってるわよ。あの方の“ご機嫌取り”も慣れたものだもの」
薄く笑うイザベラの背後で、カーテンがゆっくりと揺れた。
その風の中に、小さなさざめきがあったことに――
誰も、まだ気づいていなかった。