弟子、焦る
特級魔導士であり、王都警備隊槍術指南役「槍の姫」ミランシャは王国における「血まみれ女男爵」アグリッピナ・ロズィエールと並ぶ新世代の英傑の一人である。
柔らかそうな栗色の髪に澄んだこげ茶の瞳を持つ可憐な娘は、その親しみやすい風貌と立身出世の経緯から庶民の間で人気が高かった。
そこにきて、ミランシャが数多の貴公子の誘いを断り続けていることから、槍の姫の心を射止めるのは果たしてだれか――いやすでに心に決めた相手がいるのでは、と面白半分のうわさは尽きない。
実際のところはと言えば、それほど大げさでも深刻なものでもなかった。
もとは田舎の小娘であるミランシャの初恋は「知的で物腰穏やかな年長者への憧れ」というありふれたもので、彼が師として夢の実現を支えてくれたことでそれは幼い心にいっそう鮮やかに残った。
そんな(多少の美化もされた)初恋と比較すれば、どうしても他の男性は見劣りしてしまう――それだけのことだった。
「先生、どういうことですか!」
ノックもそこそこに飛びこんだ部屋では、豪華なソファで妙に小さくなっていた先生がカップに口をつけていた。
「ええ、なにが……?」
戸惑い気味に言いながら、師はカップをゆっくりとソーサーへと戻す。
侍女風のお仕着せをきっちりと着こなしたアンゼリカがすっとそばへ歩み寄ると、空になったカップへ紅茶を注いだ。
先生が動作で軽く感謝を伝え、美しい家令はわずかに微笑みを浮かべてそれを受ける。
「――――」
まだ王都に滞在をはじめてそれほど立たないというのに、妙に息の合ったその動きに面白くないものを覚えてミランシャの頬が膨らんだ。
「それで? どうしたのさ、ミランシャ」
「聞きましたよ。代官の方、若い女性だそうじゃないですか」
「いや、それを私に責められても……」
師の顔が困惑にふにゃとゆがむ。
幼いころにはほとんど見た覚えのないその表情は、再会からの少し年を取った師の顔では実によく見かけるようになったものだ。
これを自身の成長と見たものか、単に師が馬脚をあらわしただけか、ミランシャとしては判別がつかない。
わかっているのはそんな彼の姿をみて胸に浮かぶのは決して幻滅ではなく、幼いころとは違うしかし同じような熱を持った想いであるということだけ。
「とりあえず、座ったら? おいしい紅茶もあるし」
「はい」
拳一つ分だけを空けて師の隣に腰かけると、先生は困惑したように「隣?」とこぼした。
「あの、ミランシャ? ちょっと近くない……?」
「先生は大丈夫です」
控えめな問いにきっぱりと意思表示をする。
「またしても私に決定権がない……!」
「どうぞ、ミランシャ様」
うめく先生をよそにアンゼリカが優しい表情でミランシャの前にも紅茶のカップを置いた。
自然な動作ながら音ひとつ立てない、匠の技である。
「ありがとうございます」
彼女の紅茶は、なるほどおいしかった。
師の好みを心得ている感もある。
けれど先生はこう見えて身の回りのことは一通り以上にこなせる人だ。
これだけで決定打にはならないはず。
家令への警戒心を少し引き上げつつ、カップから口を離す。
「――つまりですね、先生。私がロズィエール師を説得している間に、別の女性と会っているのはいかがなものかということです」
「先生そこはイレーネさんを任命した人に言ってもらってほしいかな……」
「あ、そう言えばその王陛下から『一の騎士』当ての追加の褒賞のリストをお預かりしています」
「なんでぇ!?」
予想外だったのか、先生は驚いた猫のようにピンと背を伸ばして跳びあがる。
「代官さんの報告で、先生の新たな功績が判明したからですが……」
「で、でもそんな大したことしてないでしょ!? してなかったよねえ!?」
「先生はご存じないようですけど、普通は街道の整備はものすごい労力とお金が動く一大事業なんですよ」
「よ、良かれと思ってしたことなのに……!」
「ええ、実際に大変助けになったのでこうして王陛下も褒賞を出されたのかと」
「こんなのってないよ、あんまりだよ……! なんで陛下はそうポンポン気軽に褒美をだすのかなぁ!」
「先生が軽い気持ちでなさったことに関して、同じように言いたい人がたくさんいるんですよね」
「うぅぅ……」
さめざめと泣きはじめた先生に、そっとアンゼリカが手巾を差しだす。
それを受け取った師はさっと涙を拭うと、ふぅ、と息を吐いた。
そうして上げた顔には「まぁ仕方ないか……」と大きく書かれている。
いっそ潔いまでの諦めと割り切りの良さは、どこから来るのだろうと少し疑問ではあった。
同時に頭の冷静なところが深く聞いてはいけないと告げている。
本人の行動はともかくとして、先生がミランシャに授けてくれた教えそれ事態は真っ当なものだった。
武術や魔術だけではない、処世術もである。
だからこそ大いなる力を持つミランシャは「槍の姫」などと持ち上げられることはあっても、恐れられるようなことはほとんどなかった。
それこそ師の功績の負の面も引き受けたアグリッピナ・ロズィエールが畏怖の混じった目で見られるのとは違って。
そんな師が、自らはそれを実践しなかった理由。
師の真の力を知った今なら察せられる『面倒くさい』という言葉の別の面。
すなわち彼は『人の世に棲む』ことへまったくこだわりがないのではないか。
だって先生はどこでだろうと一人でも生きていけるのだ。
それをかつてのミランシャは「師はいつかどこかへいなくなってしまう」と不安として漠然と感じていた。
それで物理的な距離もともなった一度目の別れ、巣立ちに際して彼のことを忘れようともした、けれど――
「? どうかしたかい、ミランシャ」
「いえ」
のほほんとした顔でお茶菓子を頬張る師とそれを世話する家令。
ここにいない手段を選ぶつもりの一切ない同僚と不穏な気配を感じる代官――自らが連れてきたとはいえ王都で彼を囲む美しい女性たちを見てしまえばやはり黙ってはいられない。
――先生を一番に想ったのは私なんですから……! 多分。
そうですよね?