先生、立ち向かう
「先生、本当によろしいんですか?」
「うん、もちろんだよ」
再会からこちらめっきり見られることが少なくなった師の堂々とした仕草に、懐かしいような気持ちを覚えながら、ミランシャは念のために繰り返す。
「場合によってはそれなりに苦労していただくことになると思いますが……」
「大丈夫だよ。私もね、この前のアグリッピナさんの件で思ったんだ」
言葉を切ったあと、先生は力強く続けた。
「――なんでもかんでも私のせいにされちゃ困るって。そんなはずないって」
「だいたい先生のせいなのは事実なんですが」
「ぐう」
愛弟子の容赦のない指摘に、ひと声呻いて先生は黙りこむ。
「やっぱり、やめておかれますか?」
「い、いや、今までがそうだったからってこれからもそうとは限らないから……」
「そうですか。わかりました」
震え声で強がる師の姿に、ぞくぞくと良くない感情に背を震わせながらミランシャは咳払いした。
「ではこちらを、一つ目です」
目の前には五つほどの卓が並び、そのいずれにも布で覆い隠されたなにものかが置かれている。
覆いが取り払われた最初の卓に置かれていたのは、無残に引き裂かれた革製の胸当てだった。
「ええ、なにこれ……?」
戸惑った声を上げながら、先生は卓をぐるぐると回りためつすがめつ確かめる。
ものは射手が身につけるようなごく一般的な革鎧だが、首元のやや左寄りから斜め下に走った裂け目で完全に断ち切られていた。
めくれ上がったような裂け目は人の扱う刃物ではありえない幅で、一方で魔獣の牙や爪につけられたにしてはやや鈍い、何とも奇妙な傷である。
「ひどい傷だなあ、どうしたらこうなるんだろ」
「識者の見立てでは『高所から落ちた際なにかに引っかかって裂けたような』とありますね」
「あぁ……でも裂けてるのは首元からだよね。それだとこれを着ていた人は頭から落ちたことになるし、傷も深いだろうに汚れがない」
「ええ、あとは『首元から怪力で引きちぎった』という見方もあるそうで」
「いやいや、そんなまさか――あ」
弟子の言葉を笑って否定しようとして、先生がぴたりと動きを止める。
首元の裂け目のすぐ隣、くぼんだところに自らの掌をかざすようにして引きちぎる動きを恐る恐ると空中で繰り返した。
「――先生、もしそれが可能だとしたら『どうしてそんなことをした』んだと思いますか?」
「た、多分だけど傷の手当てに鎧が邪魔だったんじゃないかな……?」
震え声の先生の言葉に頷き、ミランシャは何事かを書きつける。
「なるほど。では子爵家に命の恩人が見つかった旨、お伝えしておきますね」
「あぁぁぁぁぁ……! やっぱり、貴族の人だったんだ……! 気にしないでって言ったのに! 気にしないでって言ったのに!」
「当時素直に謝礼を受け取ってた方が丸く収まったと思うんですが」
「周りの人の圧が凄かったから、そのうち忘れてくれないかなって……」
「なるほど、そうやって負の成功体験を積み重ねた結果が今の先生なんですね」
「ううう……ミランシャがすっかり都会に染まってる……」
「いえ、これも先生のせいです。では次に、これは簡単かと思います」
「ふうん?」
この期に及んで「一見して私と関係ないって事かな?」みたいなのんきな顔をしている師の姿に生暖かい笑みを浮かべながら、ミランシャが覆いに手をかける。
現れたのは簡素な装飾がほどこされた大人の肘ほどの長さの杖だった。
一見して儀礼用の品だが、作りはいささか武骨な印象を受ける
「あれ、壊れてないけど?」
「どうして壊れていること前提なんですか」
「いやそういう趣旨なのかなって……あとこれ、まさか王笏とかじゃないよね?」
いまさら権威を気にされるんですか、と顔に書きながらミランシャは頷く。
「はい。ですが王陛下が即位前に代替として使われていた品だそうです」
「それ持ち出してきていいやつじゃなくない……? でもまぁ壊れてないなら私じゃないか」
「クォルンの森で陛下が咄嗟に刺客の剣を受けて折れたはずなのだそうですが」
「えっ」
それは現国王ガイウス七世と先生が邂逅した地の名だった。
だらだらと汗をかく先生に「ところで」と愛弟子が笑う。
「先生は私が小さいころ、不注意で人形の首を折ってしまったときのこと覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、私が作ってあげた木彫りのやつだね?」
「はい、次の日には継ぎ目がわからないくらい綺麗につなげてくださいました」
「泣いてるミランシャが可哀想だったからねえ、大事にしてくれてたのは知ってたし……」
「ええ、すごく嬉しかったです。今でもあの人形持っているんですよ、子供ができたらあげようと思って」
「それだけ大事にしてもらえると嬉しいねえ。それでつまり、折れていたはずのこれと私とは関係ない可能性が……?」
「王陛下から『どうせそちの仕業だろう一の騎士、褒美の手配は済ませてある』とお言葉を頂いています」
「どうせって恩賜の前置きじゃないよ、それ!」
「なんで直して『落ちてました』なんて届け出ちゃったんですか」
「で、できそうだったから……?」
「そうですか、あとで好きな領地を選んでくださいね」
「褒美の重さに対して気軽すぎる……!」
その後の二つ(再建された王立図書室にある日送り付けられてきた焼失したはずの古典叙事詩全巻の写本、峠の難所にある日突然現れた切通に残されていたノミ)もなんだかんだと先生がらみであることが判明し、ミランシャは呆れ先生が半泣きになる中、最後の台にたどり着く。
今までより台も覆いに隠されたものも大きく、またその形状も明らかに不穏な気配を発していた。
「ねえミランシャ、これは後日ってことにするのはどうかな」
「何をおっしゃってるんですか、先生への恩返しの機会をいまかいまかと皆さん待ってらっしゃるんですよ」
「ううう、それは復讐のときじゃないかなあ……」
先生の泣き言を無視してミランシャが覆いに手をかける。
現れたのは積み重ねられた、鹿のものらしき大きな角だった。
それも一頭や二頭のものではない量である。
「あっ」
今回は即座になにかを察したような声を先生が上げた。
愛弟子が優しく微笑む。
「――ご存じですよね、先生」
「多分私じゃないし、きっと誰かがやった……! 知らない。済んだこと……!」
「見苦しい言い訳しないでください。そうです、私が先生に弟子入りしたばかりのころ、周囲を騒がせていた『狼を狩る鹿』の群れ、その角です」
「な、懐かしいね……?」
「はい。話を聞かされて怯える私に、きっとすぐに騎士団の人がどうにかしてくれるよって、先生そう言ってくださいましたね」
「はい、先生言いました……」
「――で、先生がやったんですね?」
「はい、先生がやりました……」
「その後は、代官様のところに角だけ置いて黙ってたんですよね?」
「だ、だって問題解決したのがわかれば十分だと思ったし……!」
「こちらこの度『先生の代官』となった方からの招待状です。『是非一度これまでの表ざたになっていない他の多くのことについて感謝とかを述べる機会を頂ければ――まさか来ないとはおっしゃいませんね?』とのことで」
「ほらぁ、それやっぱり恩返しじゃなくて復讐だよ! 『感謝とか』って言ってるもん! 絶対恨みに思ってるよね!? なんで!? どうして!?」
「おそらく先生が暗躍したせいで統治能力を疑われたものと思われますが……」
「て、適当に片付けて下さいって書置きしといたのに……!」
「せめて当時素直に名乗り出てらっしゃったらもっと無難な形で落ち着かせられたかと、ちなみにこの角自体の価値も結構なもののようです。律儀な方ですね」
だから苦しまれたんでしょうがという愛弟子の言葉に先生はついに崩れ落ちた。
「良かれと思って、良かれと思ってぇ……! 悪気はなかったんだよ……!」
「先生にないのは悪気ではなく配慮だと思いますけど」
「うぁぁぁ――……!」
弟子の核心を突く一言に胸を押さえて先生は泣いた。
――ガイウス七世の時代、武断王の名の通りに各地で積極的な魔物の討伐を行われたことは広く知られており、これには彼の即位の背景となった騎士団のほか、名を知られぬ『一の騎士』の活躍があったとされる。
一方で彼が隘路や悪路に道を通し、沼沢地を拓くなどの国家事業を行ったこと、積極的な文物保護の功績については近年まで見過ごされていた。