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エペソ

作者: 紀一

エペソ


 クラウスはいつものように一通の手紙を投函した。秋の始め、木々が少しずつ赤や黄に色づき始めた頃。大学へ向かう石畳の道に、一足先に落ちた赤い葉が点々と模様を作っている。通い慣れた道を行きながら、クラウスは両側に立ち並ぶ家々の奥をさり気なく見て歩く。石造りの建物は頭上高くそびえ、所々に細い横道を持っている。その横道の先に、クラウスの関心事はあった。

 クラウスの青い眼は、家並みの奥、東の方角を捉えている。この街に突如として現れた、あの忌々しい壁を。この小さな街を西と東に分けている壁。自分達の故郷は、まるで家畜小屋に仕切りを立てるかの如くあっさりと二分されてしまったのだ。そして西は自由、東は支配と言う正反対の体制の下に存在している。

 冷たい石畳の道を行き、クラウスは建築を学んでいる大学に着いた。

 自分が今こうして大学に通って自由に勉強や研究に励む事ができているのは、壁の原型である境界線ができたあの夜に下宿の契約をしに西側へ来ていたからだ。一日でも遅ければ、自分も壁の向こうに居たかもしれない。そう、ビアンカがそうであるように。

「おはよう、クラウス」

「ああ、おはよう」

 教室へ向かう廊下で、級友のドミニクが声を掛けて来た。ドミニクは書籍で重くなった鞄を肩に掛け直し、クラウスの隣を並んで歩く。ドミニクとは子供の頃からの仲で、共に建築家を志してドイツ東部の田舎町から出て来たのだ。

「ビアンカからの手紙は?」

 ドミニクから毎日のように問われる質問に、クラウスはまたも首を横に振る。

「いや、昨日も来なかった。絶対におかしい。手紙には必ず返事をくれていたのに、この三週間は一通も返って来ない」

「ビアンカはお前にぞっこんだ。離れて行ったなんて事はあり得ないもんな」

「そうだと信じたいよ。いや、僕はそうだと信じてるさ」

 そう言ってクラウスはマメだらけになった自分の右手を見た。壁は有刺鉄線からコンクリートの支柱に変わり、ブロックに変わり、時が経つにつれて強固なものになっていった。西側へ逃げ出そうとして射殺される者も居る。そんな中で、クラウスは一つの決断をしたのだ。

「今夜もやるんだろ?」

 ドミニクはクラウスのごつごつとした手を見て言う。クラウスは意志の強い眼で頷いた。

「ああ。もうじき向こう側に届く。ビアンカから返事は無くても、トンネルを諦める訳にはいかないさ。もしかしたらビアンカは、手紙を読んではいるが返事を出せないだけなのかもしれない。だったら決行の日時を暗号で記して、送ってみるよ」

「そうだな。見張られているのかもしれないからな。だが、なおさら慎重にやらないと」

「もちろんさ」

 それから二人は他の学生と一緒に午前の講義に臨んだが、クラウスはただトンネルの事だけを考えていた。ここまで必死に掘り続けたトンネルが、事故が無ければ三日後には開通する。そうすれば、漸くビアンカを西側に連れ出す事ができるのだ。手紙の返事がない事が一番不安だったが、クラウスはその不安を拭い去るかのようにビアンカの眩しい笑顔を思い浮かべていた。


 トンネルは無事、予定通りの日程に開通した。西側の壁際に建つ本屋の地下室から掘り始め、壁の向こうに通じている。クラウスはトンネル開通の翌日を決行の日に定め、予めビアンカに暗号文の手紙を送っていた。やはりそれにも返事は無かったが、時間的にも余裕がないためだと固く信じていた。

「行って来る」

 本屋の地下室で、クラウスはドミニクと数人の仲間に短い別れを告げる。この別れの言葉が最後の言葉になる可能性も皆無ではない。そんな緊張感が、狭い地下室に満ちていた。

「気を付けろよ。少しでも異変を感じたら引き返すんだ」

 ドミニクに頷き、クラウスは滑車から下がるシートを引き寄せた。ドミニクはロープのもう一方を握る。それを確認してクラウスはシートに腰を下ろし、ゆっくりと地下室の更に奥深くへ降りて行った。

 最下部へ降りたクラウスは、トンネル内に設置した裸電球の灯りの中を進んで行く。トンネルと言っても東側の警備隊に見付からないように造るには簡易的なものが精一杯だった。大人一人が四つ這いになって進むのがやっとの大きさだ。そして周囲の壁は木材で補強しただけのもの。場所によっては水が上がっている所もある。綺麗な姿で入っても、そのままの状態で向こう側へ行くのはまず不可能な出来栄えだった。それでもここまで警備隊に見付からずに居られた事だけでも神の加護としか思えない。

 息を潜めながら慎重に進み、クラウスは漸く東側の出口まで来た。出口は廃屋に置き去りにされたベッドの下だ。クラウスは警戒しながら床板を二回叩いた。すると、頭上を塞いでいたベッドが静かにどかされる。

 暗闇に沈む廃屋の一室には、十人近い人々が息を潜めて待っていた。その瞬間にクラウスは安堵の息を漏らす。ここに警備隊ではなく一般市民が居ると言う事は、自分が送っていた手紙をビアンカが読み、関係する人々にこの計画を伝えてくれていたからに他ならない。本当であれば今すぐにこの穴から飛び出してビアンカを抱き締めたかった。だが、ここではそれができない。クラウスは人々に手招きし、再び狭い穴の中へ戻って行った。


 再びトンネルを通って西側の本屋の地下へ戻ったクラウス。自分が先頭なので、まずは第一に室内へ引き上げられた。

「クラウス! 無事だったんだな!」

 ロープを引き終えたドミニクが、泥まみれなのも気にせずにクラウスを抱き締めた。

「ああ、無事さ! さあ、早く皆引き上げよう!」

 若者たちは滑車から垂れるロープを引いては、一人また一人と地上へ引き上げた。その度に家族や恋人との再会を喜ぶ声が上がる。ドミニクも両親との再会を果たし、泥と涙で頬を染めていた。そんな歓声の中、クラウスは遂に最後の一人となる人物を引き上げていた。間違いなくビアンカだ。優しい性格の彼女の事だ、自分は一番危険な最後尾を来て、他の人々を先に逃がしたのだろう。

 クラウスがロープを引く度に、滑車は静かに回った。そして深い穴の底から遂に最後の一人が引き上げられる。

 引き上げられた人物はシートから降りて西側の地を踏んだ。だがそれは、会った事も無い若い男だった。

「そんな……」

 クラウスは咄嗟に穴を覗き込む。だが下にはもう誰も残っていない。その様子を見たドミニクも駆け寄り、穴の底をよくよく見る。

「居ない……。ビアンカが……居ない。そんな馬鹿な……だって、皆こうして……」

 狼狽するクラウスの肩をしっかり支え、ドミニクはゆっくり立ち上がった。そして最後に引き上げられた見知らぬ男を見る。

「失礼ですが、あなたは手紙に名前はありましたか。どうやらここの誰とも知り合いではないようだ」

 引き上げられてからも誰もこの男を歓迎しに行かない。いや、生きてこちらへ出て来られた事は共に喜ぶ気持ちでいるが、腕を広げて迎えに行く者は居ないのだ。

 男は被っていたハンチングを取り、今にも泣き出しそうな目でクラウスに言った。

「私はニクラスと言います。国境警備隊員です」

 その瞬間、喜びの声に溢れていた地下室が凍り付いた。クラウスはドミニクに支えられて立っていたが、本能的に声を張る。

「皆、早くここから出るんだ!」

「クラウス、お前も……」

 自分の腕を引くドミニクに、クラウスは首を振る。

「ドミニク、ご両親を連れて早くここを出るんだ。僕は大丈夫」

「クラウス……」

「早く」

 ドミニクは渋々頷き、両親と共に急いで地上へ出て行った。


 薄暗い地下室には暗闇へ続く大きな穴と、いくつもの感動を運んだ滑車とロープ、そして泥にまみれた若者が二人だけとなった。

 ニクラスと名乗った男は、コートの内ポケットに手を滑り込ませる。クラウスは撃ち殺されると思い、咄嗟に固く目を閉じた。だが、銃声も痛みも無く、恐る恐る目を開ける。

「私は自由を得るためにここへ来たのではありません。あなたに会ってこの手紙を渡すために来ました」

 差し出された手紙を、クラウスは震える手で受け取った。この手紙を読んでしまったら、きっと目を覆いたくなるような現実を受け入れなければならないのだと察知したのだ。

「これは……?」

「あなたの恋人からの手紙です」

「ビアンカは……無事なのか」

 ニクラスは一度視線を床に落とし、再びクラウスを見る。

「無事とは言えません」

「彼女にいったい何があったんだ!?」

 クラウスは手紙を握ったままニクラスの肩を掴んだ。ニクラスは動じるでもなく、ただ悲しそうな目で答える。

「彼女の兄が壁を越えて脱走を試みましたが射殺され、残った家族は警察に連行されて取り調べを受けています。無事に解放されるかは……分かりません」

「何だって……」

 ニクラスの肩を掴んでいた手が力を失い、ぶらりと垂れる。

「その手紙はビアンカさんから預かったものです」

 クラウスは握り込んでいた手紙を見た。それでもまだ、封筒から出して読む勇気が湧かなかった。それ以上に、今目の前で口を利いているこの男への怒りが湧き起こる。

「あんたは、どうしてのうのうとここに居るんだ!? こんな手紙より、どうして彼女を解放してくれないんだ!? どうして彼女がここに居ないんだ!?」

 ニクラスは重たい唇をゆっくりと開く。

「私は国境警備隊員として……ビアンカさんの兄を射殺しました」

「何だと……!」

 クラウスは怒りのままにニクラスの胸ぐらを掴んだ。ニクラスはされるがままになりながらも、冷静に話を続ける。

「……私は東ドイツの人間として当然の事をしたのだと固く信じていました。ですが、警察と共に脱走経路の検証のために彼の自宅を訪れた際、あなたからビアンカさんに送られてきた手紙を読んだのです」

「僕からの手紙を……?」

「はい。私は心の底から感動しました。そして自分の過ちに気が付いた。あなたは手紙の中でしきりにこう言った。西も東も同じドイツ人なのだから、憎み合い、傷つけ合ってはいけないと。そう言ってビアンカさんを勇気づけていた」

 クラウスはニクラスのコートから手を離し、ビアンカの手紙を見つめた。

「……僕は、ビアンカに希望を失って欲しくなかった。壁に隔てられていても僕らは繋がっている。だからこそ、憎しみや怒りに呑まれて欲しくなかった」

「私はあなたの手紙を読み、ビアンカさん達が警察へ連行された後も、郵便受けに届く手紙を密かに取りに行っていました」

「それで返事が無かったのか……」

「その一通の手紙を持ち出す事だけで精一杯でした。申し訳ありません」

 クラウスは漸く手紙の封を切った。泥で汚れた手で便箋を広げると、そこには確かにビアンカの字が綴られている。

 クラウスが手紙を読み終えて便箋から顔を上げると、ニクラスが何かを差し出して来た。何かと思って差し出された手を見れば、そこには一丁の拳銃があった。

「私は自由のためにこちらへ来たのではないと言いましたよね。手紙を読まれたのなら、ビアンカさんの身に何があったか分ったでしょう」

「……ああ」

 クラウスは震える声で続ける。

「取り調べの心労で……病気に罹ってしまったと……」

 そう言って俯くクラウスの手に、ニクラスは拳銃を押し付けた。

「ビアンカさんは……昨日、亡くなりました。私は罪滅ぼしに来ました。これであなたに殺されるために」

 クラウスは怒りと悲しみに溺れる目で押し付けられた拳銃を見る。冷たく重い金属の感触があった。

「私はあなたの手紙に救われた。私があなたにできる事は、これだけなのです」

 その時、狭い地下室に重たい音が響いた。ニクラスが視線を落とすと、拳銃がクラウスの手から滑り落ちて床に転がっている。当のクラウスは手紙を握りしめたまま、涙と共に目を固く閉じていた。

「……馬鹿言わないでくれ! この手紙を読んだのか? 読んでいたらそんな事を言えないはずだ!」

「私は……読んでいません」

「そうだろうな。ビアンカは……君を赦すよう言ってるんだ。この手紙をニクラスと言う男に託すが、僕が再三彼女への手紙に書いた通り、同じドイツ人どうし……憎み合わないでくれとな!」

「…………」

 ニクラスはただ立ち尽くすだけだったが、その頬を一筋の涙が落ちて行った。

「僕がどうして彼女への手紙にいつもそう書いていたか……。それは君にも分かるはずだ、ニクラス」

 ある日突然現れた壁。冷たい壁は、いつの間にか怒りと憎しみを人々の心に植え付けて行った。豊かさと貧しさ、自由と支配、そうしたものが更にその感情を加速させる。

「……分かります」

「だから僕は手紙を書いた。彼女に、そして僕自身に。壁と言う悪魔に惑わされないようにね」

 クラウスは手紙をジャケットの内ポケットに仕舞い、床に転がったままの拳銃を深い穴の底へ蹴り落とす。拳銃は固い音と共に暗闇でこと切れた。

「君がここで死んだところでビアンカは戻らない。そんなものは罪滅ぼしでも何でもない」

「…………」

「僕の手紙を読んで心に響くものがあったのなら、君はこれから前を向いて生きて行かなければいけないんだ。僕がそうであるようにね」

「前を向いて生きる……」

 床に視線を落とすニクラス。クラウスは涙を拭いながら、苦々しい表情で言う。

「ビアンカ以外の皆を集めてくれたのは君なんだろう」

「はい、手紙を読んでいたので」

「僕への償いはそれで充分だ。君がビアンカの意志を継いでくれた。それだけは礼を言うよ」

 クラウスの手が、軽くニクラスの肩を叩いた。クラウスはそのまま地上へ続く階段へ向かう。木でできた狭い階段を、一段一段上って地上への扉を開けた。そこでクラウスは振り返らずに言う。

「僕らは、壁と言う悪魔に惑わされてはいけないんだ」

 その声は、自分自身に固く言い聞かせているかのようだった。


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