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師の大賢者らしからぬ答えに、ただでさえ表情の乏しいロンの顔から完全に感情が抜け落ちる。
この御仁はよく四回も結婚できたな。ああ、だから四回も離婚したのか。
過去に愛の女神メリッタに喧嘩でも吹っかけたのだろうか。この師ならばありえそうだ。
「などとは言わない。ええ、口が裂けても言いませんとも。」
「お前、今この師に対して失礼なことを考えているだろう。」
「さすが大賢者。見事な慧眼です。」
「まったく、小賢しい物言いばかり覚えよって。」
「何せ師匠の弟子ですから。」
「ったく。それより、さっき申し付けた課題は済ませたのか?」
「つつがなく。いつもの所に提出してありますのでお手すきになられましたら採点の方よろしくお願いいたします。」
まったく、古代魔導具『春待の導』の実用的使用方法をまとめたレポートなど、魔導学院の博士課程でもこんな専門的なことはしない。今年十二歳になる子供にやらせる内容では決して無いのだが、そうも言っていられない。
己が、この世界におけるあらゆる事象を知り尽くし、その知識に並ぶ者無しとされる六大賢者の一角、“黒鐘の大賢者”メルヒオール=スヴェン、その十二番弟子であることは理解している。
例え普段の師が、女にだらしなく、突然引きこもったと思ったらどこぞに雲隠れし、嫁に逃げられ嫁いだ一人娘と孫の尻に敷かれている、生活能力も甲斐性もまるで無い、大賢者とは欠片も想像できないただの駄目人間であろうと。
「などとは決して言わない。ええ、口が腐っても決して言いませんとも。」
「お前いい加減にせんと調合中の鉄鍋にぶち込むぞ。」
「しかし師匠。さっきとおっしゃいましたが、自分がこの課題を申し付けられましたのは昨日のことです。」
「………。」
「期限は明日までと伺いましたので昨日と今日の午前中にすべて終わらせました。よもや敬愛する我が師の抗えぬ年齢による翳りがここまで進んでいたとは大変遺憾で―――――」
何故か本の山が崩れて眼前に降り注いできた。軽い読み物ばかりだったから怪我はない物の地味に痛い。遺憾である。
そして、この話でリーシュに「それはロンが悪い。」と言われたのも大変遺憾である。
「とまあ、師匠から満足な答えを頂けなかったのでね。読書中の素朴な疑問だったのだが、大賢者でさえ答えを示せない問題を解いたならばあの色ボケ老人の鼻を明かせる…、もとい、フィールドワークの経験を積むのに中々適したテーマではないかと考えたのさ。」
「本音を隠す気がさらさら無いね。」
「まずは異世界の小説なのだから異世界の辞書から情報を得ようと思ったのだが…。」
ページをめくり、何度も読んだ【恋】の項目に再度目を通すが、ロンは「まったく解らない。」と同じ言葉を繰り返し、辞書を閉じる。
「恋の定義は朧気に理解できたと思うが、何故恋は罪悪なのか。そして罪悪を内包していながらも何故神聖なのか。まったく解らない。」
「神聖?あれ?何か新しい言葉出てきた?さっきは言ってなかったよね?」
「ああ、すまない。件の小説に書かれている一説なのだよ。」
恋は罪悪であり、神聖。
罪悪と神聖。相反する単語が何故同居するのか。
「ふ~ん。でも、神聖の方がまだ分かるかな。恋物語って読んでたらドキドキするし、楽しいし。それによく言うよね?恋してる人ってキラキラして輝いてるって。」
恋に憧れを抱く年頃の少女らしい意見に、ロンは何も言わず曖昧な微笑みを返すに留めた。弾んだ声で「ね?」と可愛らしく同意を求められても、ロンやもう一人の木偶の坊にそれを解する情緒がある訳が無い。
長年の勘か、目の前の朴念仁共の理解が及んでいないとリーシュは何も言わずとも察してくれたらしい。可愛らしい笑顔が、しょうがない奴らと呆れる苦笑に変わる。
「ロンもハウルも女の子向けの本は好きじゃないもんね。『灰かぶり騎士と林檎の乙女』とか続き貸してもまったく読まないし。」
「リーシュだって『アズラク=リーフの長い物語』とかの方が好きだろう?」
『灰かぶり騎士と林檎の乙女』は巷で話題の恋愛小説、『アズラク=リーフの長い物語』は昔から根強い人気を誇る冒険小説だ。後者は異国の自然環境や動植物なんかの描写が中々興味深く、読み応えがあったが、前者は開始十数ページで挫折しかけた。どの辺りを面白いと感じるべきなのかまったく理解が及ばなかった。だが義理で何とか一冊読み切った。以来続きは借りないことにしている。横の不義理野郎は一ページ所か一文字も読まずに寝落ちしたが。
「そもそも何で恋が罪悪なの?」
「恋を発端とした悲劇による言葉だと考えられるが、あいにく文学は専門外でね。だが問題はそこではなく、恋を罪悪と仮定して、何故、人はわざわざ不利益を被ってまで恋をするのかということなのだよ。」
「それは、人間には感情があるんだから合理的にばっかり行動できないからじゃないかな?人が理性的にだけ動けるなら犯罪なんか起きない訳だし。」
「恋は、金銭、快楽などの欲望に通ずるものがあると…。なら犯罪の取り締まりは法で決まっているのだから恋愛も取り締まるべきでは?」
「ん~、法律で定義するのは難しいんじゃないかと思うけど…。」
真剣な顔のリーシュはロンの疑問に一生懸命に悩み考えてくれているのが伝わってくる。友の問題に共に向き合おうとするリーシュのその素晴らしき友情に感動する。横の一切口を出す気のない薄情野郎とは雲泥の差である。
「でも、ロンが知りたいのはつまり、人は何故、罪を犯すのか?ってこと?」
「いや、近いかもしれないが、そういうことではないな。」
人が罪を犯す理由など人類史を遡ってもそれらしい説があるだけで、明確な回答など未だ出ていないのだ。半人前にも満たないただの子供に解る訳が無い。まあ、人が恋をする理由も似たようなものだろうが。
ロンは、おそらく万人が納得する確説や哲学的な回答が知りたいのでは無いのだろう。自分が納得できる答えが知りたいのだ。
だが、その納得できる答えとやらに辿り着く道筋がまったく見えてこない。
薄汚れたキャスケット帽を脱いで左手で頭を掻き回すが、それで考えがまとまりはしなかった。
「どうも問題提起もあやふやだな。考えを練り直した方が良いかもしれない。」
「それもいいけどさ。」
リーシュがロンの顔を覗き込んだ。その時、寝転ぶロンの角度から見て、リーシュの後方に陽の光が降り注いでいた。陽に照らされた赤毛は美しい光沢を放ち、くすみ一つ無い白い頬はキラキラと輝いている。淡い橙色の瞳は慈愛に満ちて、優しくロンを見つめている。そんな神々しい美少女が微笑んでこちらを見下ろす姿は、正に天の御使いか何かのように見えた。
「は?宗教画?」
「何の話?」
「いやこちらの話。」
「そう?」
可愛らしく小首を傾げ、ロンを不思議そうに見るも、この友人の可笑しな言動はいつものことと判じたリーシュは一つ提案をする。
「まずは、いろんな人に話を訊いてみるのは?ほら、私達なんて初恋もまだのお子様な訳だし?解らない問題があったら、知っていそうな人にいろいろ訊いてみて参考にするのが一番じゃない?」
「ふむ。なるほど。何事もまずはサンプルを集めてからということだな。」
「言い方。」
リーシュの素晴らしい提案を採用したロンは、帽子を被り直して立ち上がった。続いてリーシュも立ち上がったが、すっかり熟睡を決め込んでいるハウルは一向に立ち上がろうとしなかったので、例の辞書で脳天に一発食らわせてやった。それ程腕力に自信がある訳では無いが、重さもあって中々の威力だったと思う。だがハウルは何事も無かったようにケロッと立ち上がって、大口を開けて欠伸までしやがった。さすがにそれをやっては後処理が面倒かと身体強化魔術を使わなかったが、ハウルの平気そうな顔を見て、やっぱり使っておけば良かったとロンは一人密に悔しがった。
「貴方にとって恋とはどのようなものですか?」と尋ねると、あらあら可愛いわねえと言って生暖かい目を向けてくるのは何故だろう。
三人は夏季休暇の自由研究だとか適当な理由をでっち上げて、手当たり次第に聞き込み調査を開始した。といっても実質二人だが。
常に眠そうでやる気があるように見えないハウルだが、一応協力する気はあるのか、道行く人に声を掛けてはいた。だが、美形が恋がどうたらという質問をしてくるとどうやらナンパと勘違いしてくる輩が多いようで、若い女性相手だと九割方お茶に誘われる事態が発生し調査どころでは無くなってしまうのだ。しょうがないので手分けはせず三人一緒に聞いて回る形に落ち着いた。まあ、そうなるとこの男は、一切をロンとリーシュに任せ切りにして黙って後ろを着いていくだけになるのだが。よって実質二人になる訳である。
開始して二時間で四十人弱。まずまずの成果ではないだろうか。
走り書きのメモをパラパラとめくりながら、今までの意見を振り返ってみる。
「やだもう恋なんて!もう何十年前の話よ?親に反対されて旦那と駆け落ちしてさあ!確か、あそこの花屋のお嬢さんも恋人と駆け落ちしたんじゃなかったかしら?」
「俺の若い頃はそりゃあモテてなあ。いつも周りの女がほっといてくれなかったもんよ…。まあ今は嫁さんにほっとかれてるがな!」
「今そんな話をするな!ああ、アニー…!」
「オーギーも可哀想に。婚約者が病気で死んでから行方が分からないそうだよ。」
「恋なんてロクなもんじゃないわよ。私はもう恋なんてしないわ。…ところで、ちなみにだけどそこの彼って、今フリー?」
「初恋はやっぱり特別だなあ。叶わなかったけど、思い出すと勇気をもらえるんだ。」
何人かの心の傷を抉ることにもなったが、概ね、皆が口をそろえて、恋とは素晴らしいものだと語った。
では、何故“罪悪”なのか。
「ふむ、やはり解らない。」
「まあ、まだ始めたばっかりだしねえ。」
まるで難解な魔術式を解いているかのように首を捻るロンに、リーシュが苦笑する。
「でもいろんな人の恋バナ聴けて、けっこう楽しかったよね?」
「確かに、宝石店のあのたおやかな夫人が夫人に納まるまでに恋敵達と繰り広げた権謀術数の数々は大変興味深かったな。」
「…“森の民”と“鉄の民”の夫婦喧嘩の戦闘シーンが良かった。生で見たかった。」
「お前らどっちも恋と関係無いところに興味持ってるだろ。」
呆れ顔のリーシュが「お前らに期待した私が馬鹿だった…。」とため息を吐くが、ハウルと一緒くたにされるのは大変に心外である。
「まあいいや、ちょっと早いけど、休憩がてらお昼食べに行かない?」
「ふむ、ここからだと山姥亭が近いな。」
「山猫亭ね。いい加減怒られるよ。」
例え山姥の如き大女将に怒られようがロンは気にせずそう言い続けているのに、リーシュは毎度訂正を促して来るのだから律義なことである。
三人が山姥亭、もとい山猫亭に向けて歩き出してすぐ、突然の大声が後方から三人を襲った。
「いたあーーーーーーーーー!!ウッディいたよ!赤毛の女の子!」
「うるさい!ウッディって呼ぶな!」
思わず歩みを止めて振り返れば、ロン達と同じ年頃の少年が四人立っていた。こちらを指さして嬉しそうにしているボサボサ頭の少年が大声の主だろう。その隣の目つきの悪い少年は何やら怒っており、その後ろにいる眼鏡の少年は呆れた様子で、更に後ろの小柄な少年はオロオロとしている。
まったく見覚えの無い四人組だった。リーシュとハウルも同様のようで四人を見てきょとんとしている。
「スパン、人を指さしたら失礼だろ?ウッディもスパンを怒ってないで早く話し掛けなよ。」
「あ、ごめんレッド。」
「い、今やろうとしていたところだ!あとウッディって呼ぶな!」
眼鏡の少年に指摘され、ボサボサ頭の少年は素直に指を下げ、目つきの悪い少年は不服そうに顔をしかめた後、こちらに歩み寄ってきた。
「やあ、そこの赤毛の君!」
この場に赤毛は一人しかいない。先程と打って変わって笑顔を浮かべる少年はリーシュの側まで近寄ると、唐突にリーシュの肩に腕を回そうとした。
「少し話を、ってあれ?」
だが、腕を回される前にリーシュがサッと避けた為、少年の腕は空を切った。しかもそれでバランスを崩したのか足が縺れ、そのまま顔から近くの壁に激突した。ゴッと鈍い音がした。
「ぶっーーーーーーーーーーーー!!!」
「ウッディーーーーーーーーーー!!!」
少年が鼻を抑えながら倒れて痛みでのたうち回り、他の三人の少年が側に駆け寄ってくる。
呆然とそれを見ていたリーシュがぎこちない様子でロンを見た。
「えっと、これ私のせい…?」
「何を言っているんだ。リーシュのせいな訳が無いだろう?」
そんなことはありえない。断じてだ。




