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春の暖かな気候が眠気を誘う午後。芳醇な香りで満たされた静かな店内では、マナーの行き届いた客達が、思い思いに珈琲ブレイクを堪能していた。
ある一つのテーブルを除いて。
唐突に「相談がある。明日の休日は空いているか?」と幼馴染みに呼び出されたボーダン=シリウスは、居心地の悪い緊張感に苛まれていた。
そもそも「空いているか?」と疑問形で予定を確認された時点で嫌な予感しかしなかった。これが平時の幼馴染みであれば「空けておけ。」の命令形一言である。
ボーダンに対して遠慮の欠片も存在しないはずのハウディ=アステリオンは、しかし今、切実な顔でボーダンと向かい合っている。と言ってもいつもの無表情には変わりないのだが、漂ってくる空気が深刻だった。
いつ如何なる状況であろうと不遜な態度が板についた幼馴染みのこのような姿を見たのはいつ以来か。まだ神殿学校にも通っていない頃、勝手に魔霧の森へ魔獣退治に行って保護者達、特に母親二人を怒らせた時以来だろうか。
「わざわざ休日に悪いなボーダンよ…。」
ハウディの殊勝な態度に、いよいよ寒気を覚え始めたボーダンの顔は勝手に引きつり始めていく。
どのような事態が起こっているのか知れないが、今判るのは子供時代の魔獣退治と同じくボーダンが巻き込まれるのは確定事項ということだ。これはいよいよ腹を括らなければならない。
「一体どうしたんだよ。お前らしくねえぞ。」
いつもの傍若無人さをどこに置き忘れて来たかも気になるが、ボーダンはまず事情を聴くことにした。現状を正しく把握し、少しでも被害を最小限にする為に。
「私らしいか…。確かにらしくは無いな…。だが私ではもう、彼の敵を前にして、どうして良いか判らんのだ。」
「敵?おい、そんな報告受けてないぞ。」
「私だけで対処出来れば良かったのだが、そう上手くはいかなくてな。お前の力を借りたい。このままでは我々は、負ける…。」
ボーダンの知るハウディはいつだって威風堂々と前を向いていた。下を向くなど本当にらしくない。
ボーダンは声を低くし、慎重に尋ねる。
「そんな厄介な相手なのか?」
「ああ、私も何の成す術も無く幾度撤退を余儀なくされたことか。」
「そんなにか!」
このステラリア王国において最強の一翼に数えられる騎士団の若き俊英ハウディ=アステリオンともあろう者が。一体相手は何者なのか。
その時、ハウディの顔に動揺が走った。
「来た…!!」
「何…!?」
恐れおののくハウディの目線を素早く追いかける。だが、隣席で店員が客の注文を聴いている様子しか見受けられなかった。ざっと周囲を警戒したが、異常は探知出来ない。一体どこに敵がいるのか。
店内を見回してハウディの顔を改めて見たボーダンは、そこでようやく違和感を覚えた。
ハウディの表情、熱を帯びた視線が一人の人物に注がれている。その甘さと切なさを含んだ表情は、けして敵に向けるそれでは無い。
「可憐だ…。」
「は?」
ハウディから溢れた呟きに嫌な予感をひしひしと感じつつ、その熱視線の先、小柄な若い男性店員を見やる。柔らかな質感の茶髪に茶色い瞳で、牧歌的な雰囲気が客に安心感を与えている。童顔で学生のようにも見えるが、客との受け答えはしっかりしているようだ。至って普通の、感じの良い店員である。
「いや、あいつ男…。」
「私が可憐と感じた者を可憐と称して何が悪い。私の感性が彼の品性を貶めるとでも?」
「誰もそんなこと言ってねえだろ。つかちょっと待てハウディ。」
「何だ?私は彼を観るのに忙しい。手短にしろ。」
「お前が言う敵とやらは、まさかあの店員か?」
「ああ、名はファロウ=ハートリー。若年ながらこの喫茶『ディアロア』の店主だ。しかし気を抜くな。あの愛らしい笑顔を見る度、何度心臓を握り潰されそうになったことか。まったく末恐ろしい。」
「おい…。」
一気に気が抜けた。と同時に、沸々と涌き出てくる怒りを、ボーダンは目の前のふざけた幼馴染みに向ける。
「そういう話かよ!てめえ!恋愛相談ならそう言えよ!仕事の話かと思ってめちゃくちゃシリアスに返しちまってたじゃねえか!あー!俺恥ずかし!」
「声がデカい!!」
「ひでぶ!!」
ハウディに思いっきり頬をはたかれ、ボーダンは奇声を上げてテーブルに突っ伏した。
「お客様!?」
幼馴染みの理不尽に喘ぐボーダンに、件の店主ファロウが心配そうに駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫大丈夫。」
冷たく濡らした手拭きをボーダンの赤くなった頬に当てるファロウは、心の底から客を心配しているようだ。
善良で良い店主だと感心しながら、先程からこちらに殺気を飛ばしてくるハウディに辟易する。想い人に親切にされる幼馴染みが余程気に食わないらしい。お前の暴力が原因だろうと激しく異議申し立てたい。
「大事無いようなら何よりです。ご注文をお伺いしましょうか?」
そういえば、まずはハウディの用件を聞こうとして、まだ何も頼んでいなかった。先に店に入っていたハウディは既に一杯注文しているようで、空のカップが手前に見える。
「じゃあ、エスプレッソ。あと、腹減ったな。何かあるか?」
「本日のおすすめはカレーですね。」
「じゃあカレーとライスで。」
「お、おおおおおお、お、お、お!」
突然、冥界の亡者の怨嗟を込めた唸り声が聞こえ出した。日々、問題児な幼馴染みの諸問題に頭を悩ませ続けた弊害が表に現れ出したのかもしれない。などと一瞬過ったが、もちろん怨嗟の声の主は問題の幼馴染みだった。唸り声を上げながら血走った眼でファロウを見つめる。我が幼馴染みながら、恐怖しか感じない。
「お、お、お、おかわり…!」
「シルバームーンをもう一杯ですね。かしこまりました。」
挙動不審極まりない客にも、にこやかに応対するファロウは接客業の鑑である。
ハウディは去っていくその後ろ姿を名残惜しそうに見つめている。まるで今生の別れかのような湿度のこもった視線と表情である。もちろんこの時も表情筋は一切動いていないが。
もう勝手にしてくれと呆れたボーダンは、幼馴染みを無視してメニュー表をじっくりと見る。
「へえ、豆選べるのか。珍しいな。」
どちらかというと紅茶が主流のこの国で、珈琲豆の種類を客が選べるというのは珍しい。珈琲を出すような店は、店主のこだわりの豆しか提供されないと勝手に思い込んでいた。
「しかし、お前、珈琲詳しかったか?」
確か、ハウディもその一族も紅茶党だったような。ボーダンは祖父が珈琲党だったのでいくらか馴染みがあるが、アステリオン家で珈琲を見かけた記憶がまったくと言っていい程無い。
「いや、数える程しか口にしたことが無い。『この店で一番高い物を。』と頼んだらこれが出てきただけだ。」
「何だ?その嫌みな成金みてえな注文。」
「うるさいぞ。後でおすすめを訊けば良かったとしっかり後悔した。」
常に判断が早く正確なハウディが、聞けば聞く程の駄目っぷりである。
冴え冴えとした雪原を思わせる銀色を帯びた青髪や、氷で作られた女神の彫像と評されるいつもの美貌が、今日はどこか艶を失っているようにさえ見える。大体いつも隣にいる燃えるような赤毛のボーダンが「暑苦しい。」と何故か風評被害を受ける程の、涼やかな容姿が見る影も無い。
「お待たせしました。こちらシルバームーン、エスプレッソ、カレーとライスになります。」
ファロウが注文の品を持って戻ってきた。テーブルに並べている間も、ハウディはファロウの些細な動きも見逃さんとガン見している。仕事の邪魔になりそうだが、ファロウはテキパキと給仕をこなし、微笑んで礼をして戻っていった。
ハウディはまた名残惜しさを滲ませた顔でファロウの後ろ姿を見つめたまま、新しく来たカップを手に取る。中身はシルバームーンという聞き覚えの無い品種だ。
「シルバームーンって初めて聞くな。美味いのか?」
「味は格別だそうだ。値段は一杯エスプレッソ十杯分だ。」
「高っ!?やめとけ味音痴のくせに!」
ボーダンはつい自分のカップとハウディのカップを見比べてしまう。だがハウディはカップをグイッと呷ると一気に飲み干してしまった。
「もっと味わえよエスプレッソ十杯分!」
さすが腹に入れば皆同じ、味など二の次な生粋の味音痴一族アステリオン家である。勿体ないと非難するボーダンを無視し、ハウディは空のカップを置くと、指を組んで顎を乗せた。
「さて、ではボーダンよ。ここまでで今日の議題は理解しただろう。」
「は?議題?今日のお前のポンコツぶりについて?」
ぞんざいな返事をしエスプレッソを一口飲んで「お、美味い。」と呟くボーダンに、蔑むような目を向けるハウディ。
「貴様ともあろう者が、ここまで言って未だ事態の深刻さを理解出来ていないとはまったく嘆かわしい。それでは敵の思う壺だぞ。」
「…いろいろ言いてえことはあるが、まず何だ敵って?誰に対してのだ?」
「私と貴様に決まっているだろう。」
「勝手に巻き込むな!ようはあの店長と仲良くなりてえって話だろ?普通に話しかけろ以上!」
「馬鹿か貴様は。その作戦には大きな穴があることに何故思い至らん。」
「作戦ですら無えよこんなもん。」
「良いかよく聴け。このハウディ=アステリオン、彼の敵を前にすると…。」
そこで言葉を切ると、途端ハウディの手が震え出し、額に脂汗が滲んだ。
「何を話して良いかまったく判らん…!」
「知るか!」
「貴様まさか死地の戦友を見捨てる気か!敵前逃亡は騎士の名折れだぞ!」
「そもそも敵じゃねえんだよ!!」
こんなにも必死に助力を乞う幼馴染みを生まれて初めて見たボーダンだったが、内容が内容だけに貴重な休日を潰してまで付き合う気がまったく起きなかった。勝手にやってくれ。
「あばよハウディ。俺はカレーを食ったら帰る。」
先程から香辛料の良い匂いで空腹が刺激されている。カレーに取りかかろうとテーブルの上を改めて見たボーダンだが、何故かカレーもライスもそこには無かった。
「美味あぁあ~~~…!」
隣から恍惚の声がしたかと思えば、ボーダンが注文したはずのカレーを勝手にライスにかけて頬張る女がいた。
騎士の平服を着用し、長い黒髪を右側に緩くまとめている若い女である。
「おい、レスタ…。」
「先輩やばいっす。このカレー、マジ美味ああぁ~~~…!」
「いや、何、人の勝手に食ってんだ。」
「ケチ臭いこと言わないで下さいよ名家のお坊ちゃんが。ディー先輩これマジやばいっす。マジおすすめ。」
「ほう。そういえば食事はまだ頼んだことが無かったな。」
突然現れた後輩にもまったく頓着せず普通に会話を始めるハウディを無視し、ボーダンはレスタの横顔を見る。
王立学院時代からの一学年下の後輩であるレスタ=アリーズは、それは幸せそうな顔でカレーを平らげていた。見ればもう半分も残っていない。いつの間に隣に現れボーダンのカレーを強奪していったと言うのか。
「お前、仕事は?」
確か、ボーダンとハウディは非番だが、レスタは今日は出勤だったと記憶している。
「今、お昼休みっす。たまには食堂じゃなくて外で食べよっかな~、なんて入る店探してたら先輩達がデートしてるんすもん。バレたんだから大人しく可愛い後輩におごって下さいよ。」
「どんな理屈だ。」
「失礼致します。ご注文をお伺いしましょうか?」
新たな客の接客に付くファロウの出現に、ハウディが椅子の上から中々の高さで飛び上がった。他の客達がビクッとした後こちらの様子を伺っている。奇行で都民を怖がらせるな。だがレスタはともかくファロウや一部の他の客は一切気にせずこちらを見ようともしていない。何だこの店。
「じゃあ妖精珈琲の珈琲抜きで!」
「それただの酒じゃねえか。」
妖精珈琲とは、妖精の国と名高い隣国フィンケット・シー産の妖精の花蜜酒を加えた珈琲のことをそう呼ぶ。フィンケット・シー出身のレスタにとっては故郷の味になる。
「じゃあ、ミルク!花蜜入りで!」
「かしこまりました。」
ファロウが去っていくと、好奇心で目を爛々とさせたレスタがハウディに詰め寄る。
「それで先輩! あのマスターとは今どんな感じすか?デートには誘い済み?」
「ぶふーーーーーーーーっ!!」
レスタの質問に動揺したハウディは、飲みかけの高級珈琲を霧状に噴射した。正面のボーダンの顔面に向けて。勿体ない。
「なな、何をいいい言ってるぅう…!」
表情は変わらず無なのに声が盛大に裏返っている。今日、何度幼馴染みの醜態を見たことか。珈琲まみれにされた顔を拭きながら、しみじみと思う。
「見てりゃ気づきますって!気になってんでしょ~?あの癒やし系マスターのこと!もしかしてまだな感じっすか?」
「そもそもこいつ、まともに会話も出来てねえぞ。」
「う、ぐぐぐ……。」
「じゃあ次マスターが来たら誘っちゃいましょうよ!デート!」
「は!?」
信じられないことを聞いたようにハウディは言葉を失う。対して次々ぶっ込んでくる遠慮の無い後輩はそれはそれは楽しそうだった。
「先手必勝!いつものディー先輩の戦法じゃないっすか!」
「し、しかし!デ!?デ!?デ!?」
「デートくらいスッと言え。」
「お待たせ致しました。こちら花蜜入りミルクになります。」
迅速にレスタが注文した品を持ってきたファロウは、滑るような動きでミルクをテーブルに置いた。先程と何も変わらぬ落ち着いた態度である。しかし、ハウディの思考は「ファロウをデートに誘うという会話を聞かれた。」というものに支配された。
次の瞬間、ハウディはボーダンの頭をわし掴み、そのままカレーとライスがまだ半分以上残る皿の上に叩き込んだ。
羞恥と焦りで混乱したハウディの照れ隠しである。
周囲に飛び散るカレーと、カレーに沈む男を見て、目撃者である二人は同時に叫んだ。
「お客様!!」
「私のカレー!!」
俺の周りにはロクな女がいない、と思うのはこれで何度目だろう。そうボーダンは考えようとして、やめた。




