第十二話「幸せな夢」
あ、これは夢だ。とシルディアは直感した。
幸せだった頃の、何も知らない子どもだった頃の夢だ。
独房のような薄暗い地下の部屋で、シルディアは一日を過ごしていた。
背丈からして六歳頃だろう。
ほつれのある着古されたドレスを身にまとい、素足で生活をしていた頃の記憶。
シルディアは申し訳程度に作られたテーブルで毎日教本を広げ勉学に励む。
フロージェの影武者として本物と遜色ないようにと、シルディアに与えられた唯一の自由。それが勉学だった。
幸いなことに、シルディアは頭がよく、知識を吸収する貪欲さもあった。
ただ一つ問題があるとすれば、教育が厳しすぎたことだろう。
厳しすぎた教育は、シルディアの熱意を奪い取ってしまった。
シルディアの存在の隠蔽のため教師は王妃が務めており、娘を思うがための厳しい対応があだとなってしまったのだ。
いつしか楽しいはずの勉学が、窮屈なものになった。
シルディアが唯一心休まる時間はフロージェとの遊ぶ僅かな時間だけとなり、彼女が来るのを首を長くして待つのが日課となっていた。
王妃が休憩や公務でいなくなったタイミングを見計らい、衛兵の目を掻い潜ったフロージェがやってくる。
「お姉様」
「フロージェ! 今日は何をする?」
「絵本を読んで欲しいの」
「いいわよ」
「やった! あ、そうだ。今日の夜会は私が出るみたい」
「そうなの? 残念。それじゃあ、わたしは一足先に寝床についておくわ」
「夜会なんて面倒くさいのに、お姉様は好きなのね」
「キラキラしたシャンデリアとか、ドレスとか、あの非現実的な空間が好きなのよ」
「んー? 私には分かんないや。皆、妖精姫だってもてはやすだけだもん! 私はお姉様と一緒にいる時が一番好き! ずっと一緒にいるの!」
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね」
「あー! 信じてないでしょー!」
「そんなことないわよ?」
「うっそだぁ!」
笑い合う双子を咎める者はいない。
一度王妃に見つかったことがある。しかし怒られることはなく手放しで喜ぶものだから、やはり母なのだと再確認したものだ。
(あぁ。でも、この日、フロージェが攫われてから、崩れ始めたのよね。わたしは、フロージェが誘拐されたことすら教えられなかった)
シルディアが誘拐について思考を向けた瞬間、視界が暗転し場面が切り替わる。
夢なのだから当たり前だが、いきなり国王夫妻が横に立っていたものだから、驚いてしまった。
これはフロージェが部屋に来なくなってから数か月後の記憶だ。
必要以上に飾り立てられたシルディアは、フロージェとして夜会に参加するのだと悟った。
いつもと違うのは、入場中に国王から声をかけられたこと。
「先日、フロージェが誘拐にあった」
「!?」
「安心しなさい。フロージェは無事です」
「よかった……」
ほっと息をついたシルディアに国王は冷ややかな声で告げる。
その声色は実の娘に向けるものではない。
「これからの夜会はすべてお前に参加してもらう。いいな」
「……はい。国王陛下」
「ふん。だから厄災など生まれ落ちた時に始末しておけばよかったんだ」
「あなた!? シルディアの前でなんてことを言うんです!!」
「事実、フロージェは命の危険に晒されたではないか!」
「それはシルディアのせいではありません。シルディア。今日の夜会にはガルズアース皇国の皇王陛下と皇太子殿下が参加されているわ。ほら、あちらにいらっしゃるわよ」
優しげな眼差しでシルディアへ語りかけ、逃げ道を作る母は王妃の顔をしていた。
王妃の視線の先に皇王はいなかったが気遣いを無駄にしたくなくて頷いた。
「ご挨拶に行って参ります」
「えぇ。いってらっしゃい」
そっと席を離れ、勉強したガルズアースの皇族の目印である漆黒を探した。
しかし、目立つはずの黒は、会場には一人もいない。
どこに行ったのだろうと庭園へ足を向ければ、草垣に隠れるようにしゃがみ込む黒髪を二つ見つけた。
珍しい髪色でそれが今日の貴賓だと確信した。
「どうかされましたか?」
声をかければ、大きく揺れる二つの肩。
驚愕に見開かれた真っ赤な二対の瞳に、シルディアは宝石みたいだと場違いなことを考えていた。
「君、僕達が見えるのかい?」
「? 見えなければ声をかけられませんよ?」
「それもそうだね。変なことを聞いた。忘れてほしい」
物腰の柔らかな男性が十歳ぐらいの男の子を庇うように立ち上がり、柔和に微笑む。
きっとこの男性が皇王なのだろう。
そこらにいる貴族とは明らかに雰囲気が違う。
シルディアは膝を折り、最上級の礼を皇王へ捧げる。
「初めまして、皇王陛下。わたしはフロージェ・アルムヘイヤと申します」
「アルムヘイヤの妖精姫ですね。お噂はかねがね」
「皇王陛下の耳に入ったものが良い噂だといいのですが……」
「心配はいらないよ。妖精姫は聡明で、誰に対しても分け隔てなく接しておられるとの噂だからね」
にこにこと笑っているが、シルディアを警戒してるように見える。
シルディアは彼と同じように笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「警戒する気持ちはわかります。ですが、わたしは無力で非力な子どもですので……。先に彼を安全な場所に連れて行きませんか?」
「そうだね。どこか絶対に人の目に触れない所はあるかな?」
「……そうですね。こちらへ」
少し考えたシルディアは心当たりへと案内する。
荒い呼吸の男の子を抱き上げた皇王は、神妙な顔をしてシルディアの後に続く。
シルディアが選んだのは、庭園の奥の奥にこじんまりと佇む温室だ。
扉を開け、色々な種類の植物が植えられた温室の中を迷わずに進む。
外から中が見えないよう周りを囲うように背の高い植物植えられていると気が付いたのだろう。皇王の眉に深い皺が刻まれている。
「ここは……?」
「わたしの温室です。ここなら誰も来ません」
「庭師が来るのでは?」
「いいえ。わたしが全て育てていますので、庭師は来ません。安心してください」
この場所はシルディアとフロージェ、そして王妃しか知らない場所だ。
外に出られないシルディアを哀れんだ王妃が作らせた場所である。
「こちらをお好きに使ってください。横になられた方がいいかと思いますので」
「……あぁ。ありがたく使わせてもらおう」
皇王は青い顔をしている皇太子をベンチに降ろした。
彼の意識は闇に沈んでいるようで、目を閉じている。
明らかに夜会に参加できる体調ではない。
会場で体調が悪そうだという話は聞かなかったことから、何かしらの手段でごまかしていると考えられる。
「失礼を承知の上でお聞きしたいことがあります」
「なにかな?」
「どうして夜会の主役が抜け出しても周りに気が付かれていないのですか?」
王妃も会場に皇王と皇太子がいると認識していた。しかし、実際はその場に皇王も皇太子もいなかった。
それはなぜなのか。
聞いた理由は、単純な好奇心だ。
だが、困ったように笑う皇王に聞いてはいけないものだったのだと悟り、すぐさま頭を下げた。
「申し訳ありません。忘れてください」
「いや、気にしなくて構わないよ。君は気が付いていないんだね」
「? 何にですか?」
「妖精姫は一人っ子だったかな?」
脈絡のない言葉に内心首を傾げつつも頷いた。
「はい。そうです」
「……なるほど。では、フロージェ姫。この子の面倒を見ていてくれないかい?」
「は……い?」
「僕はそろそろ会場に戻らないといけないからね。頼んだよ」
そう言い残し皇王は温室から出て行ってしまった。
数分の間、呆然と立ち尽くしていたシルディアだったが、苦しそうな声に我に返った。
ベンチで横になる皇太子の傍にしゃがみ、顔を覗き込む。
漆黒の髪の下には青白い肌が見え隠れしていた。
クマの酷い目は、今はきつく閉じられている。
シルディアは眉を下げ、目元にくっきりと刻まれたクマを指でなぞった。
「酷いクマ。……まぁ、この国と皇国は仮想敵国だもの。寝れなくなってもおかしくはないわ」
「ん」
「あ」
「お前、は……」
開いた目が訝しげにシルディアを捕らえ、シルディアの腕を掴んだ。
勢いよく地面に押し倒され、シルディアの口から痛みに呻く声が漏れた。
「い、った」
「何が目的だ?」
「あなたを見ておけって、皇王陛下に頼まれたのよ」
「は? ……あんの、頭お花畑野郎が」
「いや、流石にそれは不敬じゃない?」
「いいんだよ。俺は」
「意味わかんない。というか、早く退いてくれない?」
「ちっ」
渋々だと顔に書いてあるが、シルディアの上から退いた皇太子は、ベンチに座り直し足を組んでふんぞり返る。
手を差し出すことなくベンチに座った皇太子に、内心怒りを覚えたが、シルディアは顔色一つ変えず立ち上がった。
「横になっていた方がいいと思うわよ」
「寝ている間に何されるか分からないからな」
「はぁ。そんな青い顔で言われてもね。いいから休んでいたら?」
ベンチの前へ座れば、後ろで息を呑む音がした。
「べつに戦争を起こしたいわけじゃないもの。だからわたしはあなたを襲ったりしない」
「ふん。どうだか」
「それじゃ素話でもしてあげましょうか?」
「……好きにしろ。俺は寝る」
ベンチの軋む音にシルディアが後ろを向けば、皇太子がこちらを向いて寝ころんでいた。
神秘的な赤い瞳から目を離せない。
「あ? しねぇのか、素話」
「……はぁ」
シルディアはため息を一つ零し、何度も読んで覚えてしまった絵本を思い出す。
それはアルムヘイヤの国民なら誰だって一度は耳にしたことのある物語だ。
身振り手振りを加えながら詰まることなく喋る。
物語を紡ぎ終わると、皇太子はクッキーを片手に耳を傾けていた。
どこかに忍ばせていたのだろう。
「行儀が悪いわ」
「お前しかいないんだから見逃せ」
「喉に詰まらせないでよ」
「ふっ俺を誰だと思ってるんだよ」
「いや、地位は今関係ないでしょう」
サクサクと軽い音を立てて食べる皇太子に、シルディアの腹の虫が小さな音を立ててしまう。
「!」
「ぷっ」
恥ずかしさに顔を逸らしたシルディアだったが、微かな笑い声に目くじらを立てて振り返ってしまった。
敵意の感じられない笑顔を浮かべる皇太子は、シルディアに一枚のクッキーを差し出した。
「ほら、やるよ」
「いいの?」
「喋らせた礼だと思っとけ」
「! ありがとう!」
手渡されたクッキーを食み目を輝かせるシルディアと、少し驚いた顔で彼女を見つめる皇太子。
「毒見は……」
「あなたが食べているのに毒見が必要?」
「それもそうか」
「ねぇ。これ、おいしいわね。上に乗っているのはイチゴジャムかしら?」
「!?」
ルビーのような瞳が零れ落ちそうなほど見開かれ、シルディアは首を傾げた。
「わたし、何か驚くようなこと言った?」
「いや。気に入ったのなら、またここに来てもいいか? 持って来てやる」
優しく両手を包み込まれシルディアはたじろいだ。
唐突なスキンシップに頬が赤らむ。
「……いきなり距離を詰めてくるのね」
「悪いか」
「いつもここにいるわけじゃないわよ。それでもいいなら、滞在中くれば?」
「あぁ」
優しげな目を向けられる意味が分からず、シルディアは眉を下げた。
本来であれば断らなければならない局面。
拒否しなかった理由は、ごく単純なことだった。
(こういうお菓子、初めて食べたわ。すごく美味しいのね)
初めて口にしたクッキーに、シルディアは魅了されてしまった。
ただそれだけ。