広がる戦禍
ロシア人はかつてベルリンに二度足を踏み入れた。三度目もあるだろう
ヨシフ・スターリン
1940年3月27日。
ポーランドへの東側諸国への侵攻により、複雑に絡み合った相互援助協定が発動。
第二次世界大戦が始まった。
初期は独仏伊波の4ヶ国がソ連と交戦状態に入り、ヨーロッパ戦線が開かれた。
しかし、イギリスとアメリカの参戦によって戦線は瞬く間に拡大。
31日には大日本帝国も参戦し、第一次世界大戦よりも遥かに広範囲での戦争が始まろうとしていた。
では、各戦線の状況を見ていこう。
[ヨーロッパ戦線]
まず、ヨーロッパ戦線。
ヨーロッパ戦線では、連合軍と東側諸国軍が正面からぶつかり合う東部戦線と、枢軸軍が中心となり東欧諸国軍とぶつかり合うバルカン戦線が発生した。
東部戦線では、援軍として駆けつけていたドイツ軍の他に、フランス軍・イギリス遠征軍・イタリア軍やその他連合軍が駆けつけ、ポーランド全土で激しい戦いが繰り広げられた。
ドイツ機甲部隊と赤軍戦車部隊による大規模な会戦で大損害を被った両軍は上手く動けずに居たが、ドイツ軍には連合軍の援軍が駆けつけ、士気が回復。再度攻勢を開始した。
(会戦については前話を参照)
ポーランド軍は、民兵を編成して赤軍に対してゲリラ的な抵抗を始めた。
それに対して、赤軍は航空機による市街地への無差別爆撃を始めた。
しかし、空軍力では連合軍に劣っており、中々制空権を奪えずに苦戦していた。
だが、陸では赤軍の圧倒的な数の暴力と工業力を活かした戦術で連合軍を圧倒した。
反抗作戦を始めたポーランド軍を機甲部隊で粉砕し、連合軍の防御陣地を歩兵部隊の波状攻撃で呑み込んだ。
その後もポーランド軍は塹壕線を敷き、高地から赤軍へ抵抗を試みたが、赤軍戦車部隊が塹壕を履帯で生き埋めにし、コンクリート要塞には砲弾の雨を降らせた。
この時点で両軍の犠牲者は60万を超え、地獄さながらの光景は第一次世界大戦の塹壕戦を連想させた。そこへ、更に死者を増加させる出来事が起きる。
連合軍の前線到達であった。
前線へ到達した連合軍と赤軍により激しい攻防戦が繰り広げられ、死体の山を築いていった。
また、当時の英仏伊軍の戦車は、T-34に如何なる方法を用いても簡単に撃破する事はできず、装甲部隊は撤退。
歩兵部隊のみの苦しい戦いを強いられる事となった。
一方、アルプス戦線では戦線がほぼ動かなかった。
理由としては、国境線が山脈地帯であるのいう点。
お互いの軍が山岳地帯に要塞や塹壕線を構築し、守備に徹していたのである。
山岳地帯に於いて敵の連携の取れた防御陣地へ無闇な攻撃をかけるとどうなるか、それは第一次世界大戦でのアルプス戦線を経験したイタリアやバルカン半島の人間だからこそ知っていた。
これによりアルプス戦線では開戦から10日が経っても双方が小規模な攻撃を行うだけで、国境線は1センチも動かずに出鱈目に死者を増やすだけであった。
この膠着状態は、1942年の東欧諸国侵攻まで続く事となる。
[中東戦線]
中東戦線は、主に仏領シリアと国境を接するトルコ社会主義共和国連邦によって発生した。
開戦初日、英仏の宣戦布告を受けたトルコ軍はシリアへ一斉に砲撃を開始。
英仏軍の隙を突く形でシリアへ雪崩れ込んだ。
砂漠での戦闘ではソ連の支援を受けて強化されたトルコ軍が、第一次世界大戦のオスマン帝国の恨みとばかりに自動車化された歩兵が奥地へ浸透。
軽歩兵や騎兵隊による攻撃を想定していた英仏軍を完膚なきまでに粉砕した。
更に4月2日にはギリシャの援軍3個師団が駆けつけ、ますます英仏軍の劣勢は確実なものとなっていった。
[アルバニア戦線]
アルバニア戦線では、主にイタリア軍とユーゴスラビア・ブルガリア・ギリシャ軍の間で発生した。
イタリア軍は装備が劣っていたことを自覚していた為、守備に徹する事を決定した。
国境線の山岳地帯を利用した防衛陣地を構築し、迫り来る3ヶ国連合軍へ応戦した。
初期は優勢であったが、優秀な性能を持つチェコスロバキアの38(t)軽戦車やBA装甲車を装備した東欧諸国軍に対し恒久的な防御力を発揮する事はできず、戦線はジリジリと後退していった。
これを鑑みたイタリアアルバニア防衛軍は本国へ援軍を要請したが、本土防衛戦力やアルプス戦線、東部戦線の戦力保持を理由に拒絶され、ムッソリーニからは死守命令が出された。
イタリアのアルバニア防衛が成功するかは、まだ分からなかった。
[中央アジア戦線]
中央アジア戦線は赤軍とアフガニスタン軍、英領インド軍の間で発生した。
この戦線では兵站線や装備確保の為から両軍はほぼ動かず、散発的な戦闘が発生するのみであった。
この戦線が本格的に動き始めるのは1943年になってからである。
[極東戦線]
ヨーロッパ戦線の次に激しい戦闘を繰り広げたのが、極東戦線である。
極東戦線は赤軍とモンゴル軍、日米連合軍の間で発生した。
英仏による宣戦布告を受けた赤軍は大日本帝国の参戦を予想して満州・樺太国境付近の戦力拡大を命じた。
そして、開戦から4日後。
大日本帝国がソビエト連邦へ宣戦を布告し、極東戦線の火蓋が切られた。
初動で日本軍は歩兵を中心とした大規模突撃戦術を採用し、全国境線に於いて赤軍への攻撃を開始した。
突然の無闇な突撃に赤軍は混乱し戦線を押されたが、直ぐに体勢を立て直し、反転攻勢に出た。
4月6日、アムール地方にてウラジオストクの確保を目指す日本軍とアメリカ軍、赤軍の間で戦闘が発生した。
この戦闘では経済圏の維持を狙ったアメリカも参戦し、大激戦となった。
また、赤軍は機甲部隊を投入し劣勢の打破を狙ったが、次々と被害が拡大した。
理由は、日本軍の肉薄攻撃であった。
ノモンハン事件に於いて、赤軍のBT戦車は火炎瓶などの攻撃への脆弱さが露呈し、改善が求められた。しかし、夏戦争の予想外の苦戦や中華国境紛争の混乱が原因で対応が遅れ未だに赤軍に配備されているBT戦車の殆どが改良が行われていない旧型であった。
その為、日本軍は犠牲を払いながらも赤軍戦車部隊へ大損害を与えることに成功。
また、勝利の要因としてはアメリカ軍の支援もあった。
アメリカ軍から支援された戦車であるM3スチュアートは当時の日本軍にとって衝撃的な代物であり、それを装備した日本軍装甲部隊も大いに活躍した。
戦闘開始から3日後、旭日旗と星条旗を掲げた軍隊がウラジオストク市街へ侵入した。
ウラジオストクは、陥落したのである。
しかし、樺太戦線ではまともな装甲戦力がおらず、赤軍のヤケクソ大量突撃を受けた樺太守備隊が敗北。侵攻開始から2日で樺太領の8割を喪失した。
世界に、戦禍が広がっていく。
地獄が始まった