The Axis powers
延長の戦い。
突然の大規模な軍事衝突に東側西側諸国両国は混乱に陥り、中国大陸への対処に精一杯になっていた。
その混乱を、好機と捉えた国々が居た。
枢軸国…ナチス・ドイツ率いる陣営である。
史実ならば、ドイツ国とイタリア王国の他にハンガリーやスロバキア、ルーマニアなどが加盟する筈だがそれらの国々が赤化しモスクワ条約機構に加盟している為実質枢軸国に加入しているのはドイツとイタリアのみとなる。
ドイツとイタリアは、ソビエト連邦率いるモスクワ条約機構を国家最大の脅威と捉え、国内で積極的に反共産主義のプロパガンダを展開した。この枢軸国の姿勢に東側諸国は憤慨し、西側諸国は称賛した。西側諸国は枢軸国との接近を図った。
この西側諸国の姿勢をドイツは利用しようと考えた。元々、東欧諸国が赤化する頃にドイツはラインラントに再駐留。オーストリアを国民投票の元併合した。オーストリア併合は、強硬な勢力拡大政策と批判がある一方オーストリアを赤化から守ったと賞賛の声が上がっている。
ラインラント駐留にはフランスが激怒し、イギリスなどへドイツへの制裁を求めた。だが、イギリスは共産主義に対抗する為ドイツとの宥和政策を進めており、他の西側欧州諸国もこれ以上敵を増やしたくないというのが本音であった。
これを良しとした枢軸国は更に東側諸国、そして西側諸国に対抗する為の拡張政策を行なっていくことになる。
また、イタリアもドイツと同様に拡張政策を行なっていた。
第二次エチオピア侵攻とアルバニア侵攻である。
エチオピア侵攻については、言うまでもないだろう。当然東側西側諸国両国から批判を受け、段々と孤立しドイツと組む原因となっていく。
そして、アルバニア侵攻。
1939年4月7日。
アルバニアはイタリア統一運動より長らく地政学上イタリアの重要な戦略的要地であった。
第一次世界大戦前、イタリア王国はオーストリア=ハンガリー帝国と共に協力してアルバニア地方がオスマン帝国の支配下から脱却させる事に成功した。続く第一次世界大戦では、戦後中部アルバニアをイタリアへ併合する事を参戦条件とし、協商国が承諾した事で参戦。オーストリア・ハンガリー軍との戦いに平行して南アルバニアの占領に成功したが、戦後ギリシャがイタリアのみが利益を得る事は許さず、南部アルバニアを要求した。
それによりアルバニアは消滅の危機に晒される。このため英仏は約束を反故として、アルバニアを独立国として認める事になった。
イタリアはアメリカ合衆国のウィルソン大統領の民族自決論に基づく圧力やアルバニア政府の非難などを受け、1920年に軍を撤退させざるを得なくなった。それから暫くアルバニア問題は過去の事になっていたが、ムッソリーニのファシスト党が政権を奪取すると再びアルバニアへの干渉を再開した。
イタリアはアルバニアが独立を達成した後、政治的混乱が続いていたアルバニアで独裁色を深めつつあったゾグー大統領に接近し経済面での援助を行い始めた。アルバニア住民は「アルバニア人」としての民族意識が薄く、国民意識形成の為に強力な中央集権政策を進めるゾグーとしても、強硬路線を続ける為には大国の後ろ盾が必要であった。かくして両者の友好関係が築かれる事になり次第に武器や弾薬、燃料といった重要物資などの援助も受けるなど依存を深め1930年代には完全にアルバニアはイタリアの経済植民地と化してしまった。
予定通り事を進めたイタリアではあったが、遂にアルバニアにも共産主義の魔の手が迫った。ゾグー大統領はイタリアの反共思想に同調ひ国内の共産主義勢力を片っ端から弾圧した。
これに憤慨したユーゴスラビアとブルガリアはアルバニアへ直ぐにでも弾圧を停止する様求めた。
しかし、アルバニアは拒否した。
だか、ここで東側諸国がアルバニアの国内情勢に直接テコ入れをすれば東側諸国の株を落としかねない…元々既に落ちているのだが、これ以上落とさないという事だろう。
ユーゴスラビアとブルガリアはアルバニア国内の共産主義勢力へ武器や車輌を送り込み、武力蜂起の誘発を狙った。
1939年4月5日。
アルバニア国内にて約50,000人の共産主義勢力が武装蜂起。
蜂起と同時にアルバニア社会主義人民共和国を名乗り、各地で政府組織や軍に攻撃を開始した。
アルバニア政府は戒厳令は発令し、イタリア王国へ援助を求めた。
イタリアはこれを快諾し、約22,000人の軍人を送った。
たかが民兵。
そうイタリア軍は舐めて掛かった。
だが、東側諸国の援助を受け最大限に強化されたアルバニア人民軍は強力であり、ゲリラ戦術を駆使して侵攻してくるイタリア軍を撃退した。イタリア軍は陸軍だけでの対応では莫大な時間と損失が掛かると判断し、虎の子の爆撃機航空隊を送った。
アルバニア人民軍が潜む市街地を逃げ遅れた市民諸共焼き払い、火の海と瓦礫の山へと変えていった。予想外の無差別爆撃の強力さにムッソリーニは焦り、西側諸国からの批判を覚悟した。
だが、東側諸国もイタリアも予想しなかった事態が起きる。
西側諸国がアルバニア内戦に於いてのイタリア側への支援を表明したのである。
西側諸国はアルバニア正規軍やイタリア軍に兵器を供与し、一部の国は義勇軍を派遣した。戦局はイタリア側に好転し、アルバニア人民軍は次々と殲滅されていった。ユーゴスラビアとブルガリアはソビエト連邦へ介入の提案を提出したが、許可はされなかった。
1939年4月22日。
イタリア軍の爆撃で人民軍の主導者が戦死。人民軍は瓦解し翌日の23日にアルバニア社会主義人民共和国は降伏した。
アルバニア内戦と名付けられたこの一連の戦争は、反共同盟結成に次ぐ東西対立の始まりとも言われる。
1939年7月16日。
ドイツとイタリアは史実よりも少し遅い鋼鉄条約を締結し、相互の団結を強めた。更に、ドイツはポーランドへ東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。このドイツの行動のエスカレートは、枢軸国へ宥和的な態度を取っていた西側諸国に危機感を与え、アメリカの大統領ルーズベルトはイギリス・フランス・ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えない。だが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。イギリスは東西の緩衝地帯となっていたポーランドを守るべくポーランド=イギリス相互援護条約を締結。
この条約が締結された事によりポーランドは英仏からの軍事援助を頼みにドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し武力による問題解決を決断した。
だが、ドイツの態度を一転させる事件が発生する。
史実よりも早い1939年8月16日。
ソビエト連邦がエストニア・ラトビア・リトアニアのバルト3国へ約400,000人の大軍で侵攻。僅か5日で陥落させ、併合した。次いでフィンランドへ軍事侵攻を開始。ソビエト連邦の突然の暴走に慌てたドイツは、ポーランドへの外交政策を停止し、対モスクワ条約機構への政策を急遽建てていく事となる。
次回は、冬戦争の話です。
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●戦争情報
戦闘名:アルバニア内戦
場所:バルカン半島、アルバニア地方
期間:1939年4月5日〜23日
結果:アルバニア王国・イタリア王国側の勝利。アルバニア社会主義人民共和国の完全降伏。
○交戦戦力
アルバニア王国|アルバニア社会主義人民共和国
イタリア王国 |ユーゴスラビア社会主義共和国連邦
イギリス(支援)|ブルガリア人民共和国
フランス(支援)
アメリカ(支援)
○戦力
・アルバニア王国側
歩兵約38,500人、装甲車含む戦車2,550輌、戦闘機120機、爆撃機50機
・アルバニア社会主義人民共和国側
民兵約50,000人、戦車782輌、戦闘機40機
○被害
・アルバニア王国側
戦死9,620人
負傷約500人
破壊:車輌198輌、航空機16機
・アルバニア社会主義人民共和国側
戦死:39,000人(民間人含む)
負傷:1,233人
破壊:戦車368輌、戦闘機38機